楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

きっちり霧雨

自分の書いたものにポジティブな反応(はてなスターとか、Twitterのいいねとか)があると自分で読み返す癖があって、昨日の日記を読み返した。(私のやっているような)川柳が働きかけることができるのは〈言葉〉だけだ、という感覚があるかもしれない。丸括弧内の限定はつけないわけにはいかなくて、私が関わっているような川柳はいわゆる「現代川柳」の中でもマイノリティではないかと思う。

ラカンフーコー、バトラーみたいな思想家の著作を読むことは決してないだろうな、と思い続けてきたのだが、もしかしたら死ぬまでに読むかも、と思う程度にその界隈への接近を感じる。精神医学の本を開けばラカンの名前は頻繁に出てくるし、「政治的」という言葉の意味を考えるにはフーコーやバトラーの考えていたことを参照するのが有用そうだ、という地点まできている(本当かは知らないが)。

読むことはないだろうと思っていた理由は、単に難しいと言われている哲学書思想書にそれらが属しているというだけでなく、自分が培ってきた本の読み方にマッチしない著作群であるようだ、ということをなんとなくの評判として感じ取っていたから。もっとあからさまな言葉で言うと、自分にとって非常にストレスフルな読書になりそうな匂いを嗅ぎ取っていたから。別の言葉で、「食わず嫌い」と言うこともできる。

それは別にどうでもいいんだけど、人生何があるかわからないねというか、若い頃に見通した未来なんて大して当てにならないねえ、みたいなことは思うわけです。というか20代の頃のほうがずっと人生を切り詰めようとしていて、「これだけあれば大丈夫」なミニマムセットを手に入れることに腐心していたよな。前も書いた気がするけど。

なんだか臭い話になったのでここまでにしておく。