楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

こいのぼりボイトレ

我が内なるミソジニー(我がAndroidスマホ搭載のGoogle日本語入力は「ミソジニー」を変換できないんだな)なるフレーズが飛び交っていた頃は、いまいちなんのことか合点がいってなかったが、このたび同一のフレーズを自ら再発明することにより、その意味を体得することができた。

私は、女性の自立性を是としながら、心の奥では女性が従順であることに心地よさを感ずる心性があることは否定できない。長時間労働を廃し、精神的肉体的ともに健康な生活が保証されるべきだと発言しながら、「頑張ったら頑張っただけ偉い」という価値観から栄養を得ていないといえば嘘になる。

もちろん、だからといって私が語る(いや、そんな語らないけど)理念が無効になるとは思わない。ある人を殺したいと思ったからといって、殺してよいことにはならないのと同じことだ。私が主題にしたいのは、理念と本心との葛藤ではない。対外的に正しい言葉で語ってゆくだけでなく、自らのうちに潜む偏見とも付き合ってゆかなければならないのだなあという、気付きのことだ。

シベリアじょうろ

働いて働いてくたびれた。

ここんとこ働きづめで、毎日3時間ほど残業をする。労働問題のニュースを見聞きしているとまだまだこんなものではない、このくらいで弱音を吐くべきではないのではないか、と思いそうになるが、私という少し体力のない一個人の集中力を使い果たすには十分な時間だ。くたびれたというこの現実を直視しよう。

私が連日苦労している(私だけではないが)のを見て、負担軽減策をチームリーダが一つ提案してくれた。そのことで緊張がぷつりと切れた思いがした。それには安堵の気持ちもあるが、私が仕事をなかなか片付けられないでいるという、心のどこかで見ないふりをしていた事実を、公式見解として認められた気がしたから気が抜けたのでもある。

そうなると帰り道に寄るコンビニでもなぐさめを探してしまう。骨無しチキン、アイス、スイーツやスナック菓子だ。でも、真に求めているものがここにはないということもどこかではわかっているんだよな。何かが欲しい自分と、それが今は手に入らないとわかっている自分とがそれぞれ逆方向に動こうとして、身動きが取れなくなる(実際は、同じところをぐるぐる回る)。

もっとも、ここ数日は忙しさのわりに正気度合いが高く、無茶な買い物(お菓子を何種類も買ったり、寝起きが悪くなるのにチューハイを買ったり)はせずに済んだ。

体が小樽

人生を賭けるような趣味とか使命がこれといってなく、休日になるとさて何をしようかと毎度首をひねっているような人間なのですけども、「私のやりたいこと」って何かと考えたときに一つ言えるのは「家事」だと思う。家事をこなしているときは、やるべきことをやっているという感触がある。人にはそれぞれ世界の中で与えられた役割があって、こと私に関してはその一つが家事であるという感じ。*1 でも家事って――自炊とか、風呂の掃除とか、ゴミ出しとか、家計管理とかですけど――世間じゃあまり重んじられてないですよね。仕事の二の次。世の雇用者は、労働者が休養をとったり余暇を楽しんだりすることは意識しても、労働者が家事を十分にこなせるように配慮するということはあまりないんじゃないかと思う。感覚ですけど。要するに労働者にとって私生活というのはあって当然のものではなく、余力があったら取り組むようなものとして認識されているんじゃないか。でも俺にとっては逆で、それぞれの世帯を整えることが第一で、それでなお余る時間があれば集団での労働に充てる、というのが正しい順序に感じる。まぁ、いまこんなふうな仕組みに社会がなってるのはなぜかって考えてみたほうがいいんでしょうけども。私は、仕事がんばるより家事をがんばりたい。そうやってスローガン化してみると、公生活と私生活、集団と個人という対立軸が見えてくる。つまりはそういう好みの話なのか?

*1:この考え方は「ナフ」の「NO-FUTURE」に対するリンクコメントから学んだ。曰く、「自分がどういう人間で、どういう星の下に生まれ、どういう行動を起こすべきなのかをきちんと理解・把握している人。」(まだリンク生きてたとは……。)

ソフビ軍艦巻き

ツイートの埋め込みがうまくいかないんだけども、「考えや知見ではなく暮らしを扱うという点に関しては、まとまった文章でないと取りこぼすものが大きすぎるなと思っていて、またブログ始めようかなという考えがよぎる。いずれ飽きるとしても。」このように思い立ちまして、その足で(指で)スマートフォン端末にはてなブログのアプリをインストールしまして、眠っていたアカウントを起こして再開の辞をこうして書いている次第です。再開の辞というとこれからある程度の期間は継続的に更新されるかのような気持ちを起こさせるけど、そういう保証もない。最近思ったのが、こうして押し入れに半分頭を突っ込んで寝そべりながらにしてブログを再開できているのに象徴されるように、いまや思い立ったその場でそこにjoinできることが暗黙の美徳のようなところがあって、そこに併置してみるといにしえの2chで言われていた「半年ROMってろ」という常套句はいまの時勢にはまるっきりそぐわないのだろうなぁ、と何かの拍子に思った次第です。時代は変わったってのは、まぁ、色んなとこで思うけど、それって考察の出発点でしかないのではある。

移転

たびたびすいません。

さくらのレンタルサーバのほうでブログツール(Serene Bach)が導入できたのでまたそっちで書いてます。

今まで書いたやつをぜんぶあっちに統合できると楽しいかな。

http://vitalraw.sakura.ne.jp/

もみあげ群像

企業説明会に出向くときはスーツを着て、でも暑いのでジャケットとネクタイは会場の手前まではつけないでおく。30分くらいは時間に余裕を持って行って、会場の所在を確認する。時間があまる。ありがたいことに今日は会場近くにベンチが設置されていたので、腰掛けて道行く人を眺めつつ、いかにも就活風の身なりの人がそっちの路地によく入っていくのに気づいて、この企業は志望者が多いのか(説明会参加者が二人とか一人だけとか、そういうのが続いていたので)と思ったりしていたら、エクスキューズミーと声がした。
その人は台湾から来ていて、ある建物に行きたい、パソコンの画面に表示されてる住所を写メしたやつを見せてきて、会場側が用意した簡易な地図も持ってるんだけど、要するにここからの道を教えてくれということらしい、遅れそうなのか額に丸い汗。僕はさっと取り出した普段使いの文庫版の地図でその住所を探してみるが特定できない。ところどころ番地レベルでは記載に抜けがあるのだ。しょうがないのでスマートホンでGoogle Mapを出し、GPSで現在地を特定した。で行き方わかるはずなんだけど、特定された現在地がなんか実際と違う気がして、意外とずれてるときあるからな(だから紙の地図を使っている)、しかしそうすると適切なガイドができないわけで、そんな用意もないのに案内を引き受けてしまった自分は「お時間大丈夫ですか」と尋ねることも満足にできず、台湾人の男はどちらかというと自分の理解のために英語でなにかまくしたてるんだけど半分くらい中国語に聞こえて、そのくらい速くてこなれてるって意味なんですけど、最終的に自分のグーグルマップに表示されてる交差点と男の持ってる地図に載ってる交差点これとこれは同じ交差点だよ!と指摘したら何かを納得したらしく(って無責任な言い方だが、その指摘によって決定的に何かが進むと判断したのは僕自身であるわけで)、そうかこうしてこうして行けばいいのか、ありがとうみたいな調子で英語をまくしたてて握手して去って行きました。握手かーって、ちょっと目が覚めた。
何が言いたいかというと、この一連の流れの中で男に何かを伝えられただろう唯一の表現が、「(ふたつの交差点を順に指差して)This is this.」という文であったという事実が、こう。でも英語力のなさを嘆くというよりコミュニケーション能力というか、いろいろ果敢に試してみる気概が必要よね。英会話とかチャレンジしてみたい気がした(素直)。英語がというか、そういう不自由な状況の中でいろいろ試みを繰り返していると根性が養われそうだよね。