『劇場版センキョナンデス』という映画を週末に観に行こうと思っている。この映画は東京で2週間前に初公開されていて、本当はすぐに観に行こうと思っていたのだが、仕事の疲れを癒す必要があり家でだらだらしたり電車で遠出したりしていたら2週間も経ってしまった。
この映画についての記事がTwitterで流れてきたので読んだ。
センキョナンデスを声を上げて絶賛しておかなければならなくなった件|帰社倶楽部|note
この記事は、映画サイトで当作に対してつけられた短評に対する反応・反論の形をとっている。
キネ旬 Review ~キネマ旬報映画レビュアーによる新作映画20本のレビュー|KINENOTE
一点注意。上記のリンクは最新の映画評が表示されるページで、コンテンツはおそらく流動的になっている。1ヶ月もしないうちにバックナンバーに移動すると思うので、この日記をあとになって読む方はバックナンバーから2023/2/18公開の映画に対する評を見つけてほしい。
私が引っかかったのも上のブログの方と同じで、この一文。全部で220文字しかないので引用だけでも全体の半分近くの分量になってしまう。
取材対象が二つの選挙にまたがっているので流れもわかりにくく、建前としての中立性(劇中で特定の候補者に「応援してます」などと言っている)も投げ打っていて、単純な撮れ高不足も露呈している。
紙幅が極めて限られているため一文に複数の内容が含まれている。
- 取材対象が二つの選挙にまたがっているので流れがわかりにくい。
- 建前としての中立性(劇中で特定の候補者に「応援してます」などと言っている)を投げ打っている。
- 単純な撮れ高不足が露呈している。
箇条書きに直す際に、語尾と助詞(「も」→「が」に直した)を整えた。
それぞれのポイントが意味的に連絡しているのかを考えてみる。(いや、そういうことやりたかったわけではないんですが、文の意味がわからないとそれに対するコメントも書けないので……)
2と3は連絡している。「撮れ高不足」だから、「中立性〔…〕を投げ打って」無理やり見応えを作っている、と筆者は言いたいのかもしれない。
1と3も連絡している。「撮れ高不足」だから、「二つの選挙にまたがっ」た内容を無理に一つにまとめたために統一性に欠ける仕上がりになっている、と筆者は言いたいのかもしれない。
もちろんこれは推測であって、もともとのテキストには書いていない。また、上記のような連絡関係があったときに、それをなぜ1→2→3の順番で配置したのか(3→1→2とかのほうがわかりやすくないか)、そしてなぜ構造を表す接続詞を使わずに単なる動詞の連用形で並列したのかもここまでの分析ではわからない。(実は、当作の汚点として、相互に無関係な内容を単純に列挙しただけなのかもしれない。ただし、その場合は3が宙吊りになる。直接目に見えないものが露呈していると言うとき、それは何かを通じて露呈しているはずだが、その「何か」が書かれていないからだ。)
それはそれとして、もともと取り上げたかったのは「建前としての中立性(劇中で特定の候補者に「応援してます」などと言っている)も投げ打っていて」の部分だった。これは構造を考えると〈特定の候補者に「応援してます」と言う〉ことが〈「建前としての中立性」を投げ打つ〉ことを意味しているという主張を含んでいるわけだが、それ自体ずいぶんとナイーブな中立性観だなぁというか、不偏不党的なものに過剰に重きを置いているという印象を受けた。ご自身は「リベラル系言論人総崩れ」などと言って偏りを露わにしているのにね。
これはこのレビュアーの方──いまページを見直したら「宇野維正」とちゃんと署名してあるのに気付いた──の話が矛盾してるよと言い立てたいのではなく、偏っていない立場などないという(それこそ)建前は十分浸透したかのような気がしていたが別にそうでもなかったという驚きのことを考えたい。
一口で言って、人々は(たぶん、とくに、日本で生まれ育った人々は)政治というものと付き合うときの距離感をうまく掴めてないんじゃないかと思う。政治的なものの取り扱いに慣れていない。それがここ数年間でぐっと身近になって、個人的なことは政治的なことという言葉もあるけどそうした考えが浸透しきらないなかで「これ以上いったら政治になっちゃう」とかおっかなびっくり歩んでいるのが今なのだ。境界線があるわけではなく「すでに政治」なんだけど。
なんだか抽象的な言い方しかできなかったのでこのへんで終わる。ただ改めて思うのは、たかだかその人の立場や偏りが垣間見える場面があったぐらいで毀損されるような「中立性」を守ることで一体何が守られてるんだろうね?ということ。