楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

間歇もみじ

雨が降ると言われていたので一日引きこもるつもりでいました。実際に引きこもりました。8時半に起きました。一日かけて仕事をするつもりでいたけど、家にいるとだらけますね。つい関係ない検索はじめたり。夕食前についに散歩に出ました。携帯音楽プレイヤーもラジオも語学テキストも持たず、目的地もなく、散歩のための散歩をひさしぶりにした。リサイクルショップに立ち寄りました。うちの近所にはリサイクルショップが4件ほどあり、そのいちいちを見て回った。店ごとにカラーが違うのね、これが。やたら古い箱とか家具とか小道具が置いてある店があり、どこから仕入れてくるのかという興味とともに楽しいスポットであります。レジスターを見かけて欲しくなった。5000円だが、使い道ないが、うーん欲しい。事務機器に対するあこがれがあるらしい。

駅舎と新人類

日記を書きたくなったので日記を書きます。8時に起きました。今週から早く起きるようになったのでとてもいい徴候だなあと思います。起床時刻はあいかわらず不安定ですけど。昼まで寝過ごすことがなくなったので人生前向きです。でも学校行かないかぎり午前中は非生産的なことやって過ごすので、CD聞いたりとか、散歩に出たりとか、それはそれで有意義なんだけども、午前中はお勉強とかするのに適しているのは自分でもわかってるので、それをしないのは結局早起きできたからって人生が劇的に変わるわけじゃなくて世界そういうふうにできてるよネーと一面では安心もするのですが。就寝と起床の時刻が一定だと健康になれるらしいので健康になりたいです。

もうちょっと書きたかったですが別のこともやりたいのでまた今度。

弥勒炒め

「食事しながらスマホを見るのは恥ずかしいことだ」という内容のツイートを見た。確かにそうだよなあと思った。

これの子供バージョンとして、「食事しながらゲームボーイをする」というのがあると思う。あるいは似たようなのとして食事しながらiPodを聞くとか。さてここまで考えて気づく。なんで食事中にスマホ/ゲーム/iPodは、行儀悪いんだろう。(同類のものを並べると、それらに共通の性質を見つけたくなる) 僕は基本的にどれもやらないから、これは真に迫った問いではない。いや、今日、お昼ご飯を食べながらこんなことを考えていて、気づいたことをA7リングノートに書き留めている僕も、これらと同断なのではないか。食事中にメモるのも行儀がよろしくないのではないか。たぶんそうなるはずだ。僕の中の行儀の概念がそう告げてる。

それにしても、行儀が悪いという概念はよくわからない。行儀が悪いということは、殺人や盗みと同じような領域で悪なのではない。行儀が悪いやつを取り締まるなんてことはしない。あなたが気づけばマナーは変わる、自分でその意味に気づいてこっそりあらためるタイプのものだ。僕はごはんをよく噛んで食べてるけど、それを他人に強制しようとは思わない。よく噛んで食べないからといって他人に迷惑がかかってるわけじゃないからだ。いや、ほんとは、そういうことこそ強制すべきことなのかもしれない。よく噛むことは人生の質を上げる。(かもしれない) 強いてでもやらせるべきなのだ。でも強制することが正当化されるのは、世界をプラスに持ち上げるためよりは、マイナスに落ち込むのを食い止めるためなんだよね。自殺を防ぐのは社会が勝手にやってくれるけど、人が幸せになるのはあまり助けてくれない。やばいことになってから焦り始めるということか。思い当たる。

話がそれた。行儀の悪さを忌むのは、道徳のような強制力のはたらく領域ではなく、どちらかというと、電車の中でイヤホンを音漏れさせないというような、マナーに属するものに近いようだ。ところが行儀の悪さは、イヤホン音漏れのように、人を不快にさせることでは必ずしもないんだな。食事しながらスマホやってる人がいてもいらいらするわけではない。いらいらするとしたら、その原因はまさしくそれが行儀が悪いことだからであり、そうすると行儀が悪いことが忌まれるわけを「それは人をいらいらさせるから」と答えることは循環論になってしまう。要するに行儀が悪いことは、他のなにがゆえでもなく、行儀が悪いゆえに忌まれるのではないか。

でも、行儀が悪いことのなにが悪いのかはやっぱりよくわからない。少なくとも高めの美意識に属することがらではあるよね。ただ、こうまとめると、本は背の順になるように並べなさいって人の本棚に文句つけてるのと同じ袋に入れることになるけど、それは悪意ある扱いかしら。うーん。食事スマホがみっともないの、感覚としてはわかるんだけど。まあ徳とかそういう話なのかもしれませんね。美人の女将さんがキリッと注意してこそきわだつ事柄だと思う。

貧乏キャビア

朝から登校して、図書館のパソコン室で訳読して過ごした。過ごせば過ごすほど、午前中のほうが活動に適してるよなん。人には会わずに過ごした。しゃべってる人がいて気が散ったので注意したら、そのあとどきどきして手が震えた。おお。

ジュレ探偵

日本人は(英語の)LとRの音が区別できないってよく言うけど、ぜんぜん違う音だよね、という話をした。ずっと思ってたけど長いこと言わずにいたこと。いったん区別してしまえばぜんぜん違うんだけど、区別してみようかと真剣に考えてみたことがない人がたぶん多いので、それがそのままLとRの違いがわからない人の数になっている。何かというと、この話は同意が得られにくいどころか、英語を英語っぽく発音することはどこか気恥ずかしいことでさえある、なんて事情もあって、話題にはしないでいた。「LとRってどこが違うのかわかんないよね」で通じ合ってる中に、「えっ!全然違いますよ」と割って入るのは、かなりいやみったらしい印象を与えるのではないか。でも全然違うんだよ。

これと似た話なのかどうか、エスカレーターを歩いて降りていくときにどたどたと足音を立てるのは御法度だという美意識が僕にはあって、自分が立って乗っているときに横を乱暴に通り抜けていって足場が揺れるのが、無神経だな、って思うのですけど、だからといって降りるときは音を立てるなってのも高すぎる要求な気がする。だので、エスカレーターをどたどた降りていくのが平気な人にこういう話をしても、単なる価値観のすれ違いで実りがないんじゃないかとか考えたんだけど。だからといって話が通じる人同士で通じ合ってるのも、こういうのは「わかる人だけわかれ」って次元の話じゃないような気もするし。ただ倫理ではなくマナーの話だから、「こう感じる人もいる」ってのが多様に広まっていくとだんだんいい感じになるのでしょかね。ついでに似たようなので言っとくと、電車の中でガムを噛んでて匂いが漂ってくるのもけっこう気が散ります。

参謀ピューレ

最近駅までの道は語学のトレーニングの時間にしてて教科書の文章を唱えたりしながら歩いてるんですけど、それでひさしぶりに気が変わって森高千里を携帯プレイヤーから流してたら何度かじわっとくる瞬間がありまして。冬で寒いときとか、健康を崩してて弱ってるときなんかは音楽に涙を誘われやすいきっかけですけど、特別そんなこともないのになぁ、年かなと思いました。しかし音楽聞いて泣けてくるのって必ずしも作品を全体で受け止めた上で感動してるんじゃなくて、フレーズのはしばしをつかまえて都合のいい脈絡からのぞき込んで感動するので、私は音楽で泣けるってのがたいがいそういうぐあいなのでどっちかというと自己陶酔のたぐいですねありゃ。音楽に刺激を受けて私のなかの何かが広がって自己感染してしまうというかんじ。しかし行きで2回帰りで1回、感情の動揺がきたので、まあまあなんなんすかねな気持ちにはなった。