楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

泉牛丼

クマのプーさん Mugcup Collection」の所論を読んだり、リンク集からアクセスできる、少なくとも5年以上前の誰かが書いた文章を読んだりして。ああ、やっぱりテキストサイトっておもしろいなあと、しばらくぶりに回帰的に思う。

インターネットの回線が速くなったのが悪いのかな。

ひとつひとつの動作が軽くなった。すぐに修正がきくから、気づいたときに追記できるから、行間に核心を詰め込まなくてもいいようになった。そんで。

時代の変遷だなんて、ブログ的でファストフードな切り口だとわれながら思う。

「言いたいこと」、ねえ。昔はもっと、言いたいことに突き動かされていたけど、その頃の文章は面白かったんだろうか。読み返すとつたない。

キュビズムシャーベット

日記を書こうとしても一日なにがあったか、とびとびにしか思い出せなくて空白をところどころに感じるのでそればかりが嫌ですねえ。老いだったり大人になるだったりするのかもしれませんけど、ルーチンワークに落ち込むというより落とし込みようがない現状で、一日が短いとはべつに感じないし。なにしろ過去じぶんがどう感じていたかなんて再現するの難しいですからね。わかんないですよね。だから日記が手がかりになることもあるんですけど。

朝は9時半まで寝過ごす。先月くらいまでの状況からすればすごくいつのまにか改善した時刻ではあるんですが、しかし起きてみると朝はゆーうつなのな。生きていても意味がない/死にたい、に類するなにごとか、隠蔽され偽装されたそれら、言葉として姿を現さない気分さそれはただの気分さ、気分未満のなにごとかさ。事物がすべて背景にのいて見える。手が目の前のカップをつかんでコーヒー牛乳を飲む、それが実際に起こっているゆえにそれは可能なことでもあったんだけど、背景から浮き出てわいわい騒ぐのではなくて目の前のカップをつかんで飲む動作そのものもあくまでいつまでも背景だ。こういうのはともかくも外に出れば舞台が反転するといまでは確信するようになったので、着替えて、でも出かけないほうが昼食代浮くし……というアナザー選択肢が目に入り、こういう調子よくないときは論理的必然性に従って動きたいので選択肢が複数あって両方にメリットデメリットがあったりすると動けないんですよね。まだ調子わるすぎなかったので家を出ました。カメラ持って。調子よくないときって決めれないので持ち物を積み過ぎたりしちゃうんですが、ニューエクスプレスグルジア語は持たずに済んだ。語学の勉強しながら同時に被写体を探すのが不可能だからだが、そのテードのことも明瞭に意識できないのよね。ことばで考えなきゃ。

ラオスフェスティバルというイベントを見に行きました。出店がいっぱい。ラオスなんだけどタイ料理の店もありました。見るだけ見て雰囲気だけいただいてあとは牛丼でも食べにいくかってな腹づもりだったのですが、意外と500円とかで食べ物が手に入る物価状況だったので、鶏肉のハーブ和え・もち米セットを買って食べました。出店なのでやっぱり少ないけどうまい。コリアンダーうまい。辛い。ひとつ食べたら欲が出てしまって、同じ店でスイカハイボールというものをいただきました。店先にスイカ漬け焼酎が置いてあるのな。手にこぼしたけどべたべたしてなくてすっきりした味でしたよ。

そのあと大学の図書館へ。草履で来たんだけど親指がもう痛くなってた。うー。痛くなる日とならない日があるんだよな。レファレンス室にいって読まなきゃいけないやつを読み進めてたんだけど、ときどき訳出しながら、辞書の用例とかこまかく確認しながら、関係ない調べものに逃げながら、休憩として別の本読んだりしながらやってたら1時間に1ページ弱というあきれた効率をはじき出しました。はい。つかれたって思うのが早い。休日にお勉強するのは自分のやりたいことでもあるし愉しいんだけど、ところどころ意識が遠くに向いて、人恋しさというか人間とコミュニケーションをとりたい気にとらわれていた。とらわれてるあいだは自分がたくさんのことをしゃべれる人間であるかのような、拡張されたキャパシティを感じているものだけど実際はそうはいかないわけだけどやる気があるかどうかとその枠組みの中で自分がどこまでできるかってのは別問題。どっちにとっても別問題。

間歇もみじ

雨が降ると言われていたので一日引きこもるつもりでいました。実際に引きこもりました。8時半に起きました。一日かけて仕事をするつもりでいたけど、家にいるとだらけますね。つい関係ない検索はじめたり。夕食前についに散歩に出ました。携帯音楽プレイヤーもラジオも語学テキストも持たず、目的地もなく、散歩のための散歩をひさしぶりにした。リサイクルショップに立ち寄りました。うちの近所にはリサイクルショップが4件ほどあり、そのいちいちを見て回った。店ごとにカラーが違うのね、これが。やたら古い箱とか家具とか小道具が置いてある店があり、どこから仕入れてくるのかという興味とともに楽しいスポットであります。レジスターを見かけて欲しくなった。5000円だが、使い道ないが、うーん欲しい。事務機器に対するあこがれがあるらしい。

駅舎と新人類

日記を書きたくなったので日記を書きます。8時に起きました。今週から早く起きるようになったのでとてもいい徴候だなあと思います。起床時刻はあいかわらず不安定ですけど。昼まで寝過ごすことがなくなったので人生前向きです。でも学校行かないかぎり午前中は非生産的なことやって過ごすので、CD聞いたりとか、散歩に出たりとか、それはそれで有意義なんだけども、午前中はお勉強とかするのに適しているのは自分でもわかってるので、それをしないのは結局早起きできたからって人生が劇的に変わるわけじゃなくて世界そういうふうにできてるよネーと一面では安心もするのですが。就寝と起床の時刻が一定だと健康になれるらしいので健康になりたいです。

もうちょっと書きたかったですが別のこともやりたいのでまた今度。

弥勒炒め

「食事しながらスマホを見るのは恥ずかしいことだ」という内容のツイートを見た。確かにそうだよなあと思った。

これの子供バージョンとして、「食事しながらゲームボーイをする」というのがあると思う。あるいは似たようなのとして食事しながらiPodを聞くとか。さてここまで考えて気づく。なんで食事中にスマホ/ゲーム/iPodは、行儀悪いんだろう。(同類のものを並べると、それらに共通の性質を見つけたくなる) 僕は基本的にどれもやらないから、これは真に迫った問いではない。いや、今日、お昼ご飯を食べながらこんなことを考えていて、気づいたことをA7リングノートに書き留めている僕も、これらと同断なのではないか。食事中にメモるのも行儀がよろしくないのではないか。たぶんそうなるはずだ。僕の中の行儀の概念がそう告げてる。

それにしても、行儀が悪いという概念はよくわからない。行儀が悪いということは、殺人や盗みと同じような領域で悪なのではない。行儀が悪いやつを取り締まるなんてことはしない。あなたが気づけばマナーは変わる、自分でその意味に気づいてこっそりあらためるタイプのものだ。僕はごはんをよく噛んで食べてるけど、それを他人に強制しようとは思わない。よく噛んで食べないからといって他人に迷惑がかかってるわけじゃないからだ。いや、ほんとは、そういうことこそ強制すべきことなのかもしれない。よく噛むことは人生の質を上げる。(かもしれない) 強いてでもやらせるべきなのだ。でも強制することが正当化されるのは、世界をプラスに持ち上げるためよりは、マイナスに落ち込むのを食い止めるためなんだよね。自殺を防ぐのは社会が勝手にやってくれるけど、人が幸せになるのはあまり助けてくれない。やばいことになってから焦り始めるということか。思い当たる。

話がそれた。行儀の悪さを忌むのは、道徳のような強制力のはたらく領域ではなく、どちらかというと、電車の中でイヤホンを音漏れさせないというような、マナーに属するものに近いようだ。ところが行儀の悪さは、イヤホン音漏れのように、人を不快にさせることでは必ずしもないんだな。食事しながらスマホやってる人がいてもいらいらするわけではない。いらいらするとしたら、その原因はまさしくそれが行儀が悪いことだからであり、そうすると行儀が悪いことが忌まれるわけを「それは人をいらいらさせるから」と答えることは循環論になってしまう。要するに行儀が悪いことは、他のなにがゆえでもなく、行儀が悪いゆえに忌まれるのではないか。

でも、行儀が悪いことのなにが悪いのかはやっぱりよくわからない。少なくとも高めの美意識に属することがらではあるよね。ただ、こうまとめると、本は背の順になるように並べなさいって人の本棚に文句つけてるのと同じ袋に入れることになるけど、それは悪意ある扱いかしら。うーん。食事スマホがみっともないの、感覚としてはわかるんだけど。まあ徳とかそういう話なのかもしれませんね。美人の女将さんがキリッと注意してこそきわだつ事柄だと思う。

貧乏キャビア

朝から登校して、図書館のパソコン室で訳読して過ごした。過ごせば過ごすほど、午前中のほうが活動に適してるよなん。人には会わずに過ごした。しゃべってる人がいて気が散ったので注意したら、そのあとどきどきして手が震えた。おお。