楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

潮汐互換性

外国語を学ぶことは、外来語のもつ「異国の響き」「エキゾチックな響き」をなくしていくことだ。一面では。クーペだのコンシェルジュだのツベルクリンだのツェルトだのトーチカだのグラスノスチだの、外来語にはそれぞれ独特の雰囲気がある。世界地図を眺めているとノヴァヤゼムリャという島があるが、これを見つけたときはたいそう興奮したものだ。だって、ノヴァヤゼムリャだぜ。でもすこしばかりロシア語を学んで、おおまかな意味や、スペルや(原語により近い)発音が推定できるようになると、「ああそういうことね」と腑に落ちてしまうと、そこで僕はノヴァヤゼムリャというよりはНовая Земляを自分のものにしてしまう。もちろん一面ではそれは喜びだ。その気になれば僕はノヴァヤゼムリャを格変化させたり、複数形にしたりすることができる。今やノヴァヤゼムリャは看板に書かれている、修正不可能な、鑑賞するためのものではない。

だけどそこが悲しいところでもある。鑑賞者でいたほうが楽しいこともあるわけだ。端的に言って今や僕は「ノヴァヤゼムリャ」にときめかない。……と言い切ると嘘になる。だけど以前の「なんかすごそう!」という期待に似た感情は確かに薄れた。一般に、何かを知ることは、それを自分のものとすることだ。そして、自分のものではなくむしろ他なるものであるということがそれに対するエキゾチックなあこがれを喚起するのも、事実だろう。難しそうな芸術作品を見ていて、あとで「この作品はこういうねらいで……」と解題されてみると、「ああ、そんなこと……」とがっかりすることがある。そういうときって、作者自身が作品の魅力を理解できていないのか、僕の鑑賞の仕方がつまらないのか、まあ後者でしょうね。道ですれ違う女の子をどれもかわいいかわいいと認定しているみたいな。同人要素があればなんでも掛け合わせちゃう人のような。つまらんつうか、その作品じゃなきゃ成り立たない見方ではないって意味で。まあそれはそれとして、でもキリル文字が並んでるのを見てわくわくする感覚はとてもいいものだし、学んでいくことでそのわくわくが薄れてしまうのは確かに惜しい。惜しいけどだから何も知らない学ばない!というのは確かにどこかおかしいのだ。この「惜しさ」と「おかしさ」が並んでいたら、僕は「おかしさ」をとってしまうタイプだ。

公開魚類

意味の薄さ、というものに気づくようになったようだ。文章を書いているとき、この日記や、ツイッターの発言や、秘密のノートや、とにかく自分で内容を考えて自分で書く、というものを書いているとき。おや、ここは意味が薄いぞ、と思ったりする。

端的に言って意味の厚いものとは文章の中核となるアイデア、意味の薄いものとはそれに付随する説明だ。文章を書こう、何かを言葉にしようと思うときには、それを言葉で表明したい中核的なアイデアがある。ある新しい考えを考えついて、新しい何事かを発見して、それを言葉にしたいと思うようになる。

でも僕などは、アイデアを思いついた背景も書きたいし、アイデアを支える根拠も示しておきたいし、なんなら反対意見に対するあらかじめの弁解だって用意する気だってある。そういうものが無駄だとは思わない。だって答えを示すのと、その答えにたどり着く道筋を示すのと、どっちが親切かっていったら後者だろ。だけど、思いついた背景はともかく、根拠とか反論に対する反論といったものは、アイデアが生じた時点では与えられていない。つまりアイデアは、それを支える言論とともに思いつかれる訳ではない。書く段階になってはじめて根拠を考える必要にせまられる(根拠を書こうという人は)。

だけどそんな根拠はどうせその場で思いついたものだから、うーん、やっぱり見ていてどうしても軽い。頭の中の引き出しを探して、なんとか合うものを見つけてくる。きっとこの分野は読書量がものを言うのだろう。僕は読書量が少ないので引き出しが少ない。あり合わせのもので組み立てた「意見」は、それを支える屋台骨がとても弱い。見た目にもみすぼらしい。もちろん今日は自分の能力の低さを嘆きたいのではない。

中核的なアイデアは意味が厚い。これって一般的にそうだという話ではないし、なんなら文字通りの話でもない。でも、けっこう動かしがたい重さをそいつが持ってるのは確かだ。つまりそれを根拠づける仕方はいろいろありえても、もともと言いたかったそいつを別のものに差し替えるということは考えつきそうもない。もともと言いたかったそのことが、もしかしたら間違ってるかもしれないと気づくかもしれない。よくあることだ。でも、なんとかしてその言いたかったことを残せないかと僕なんかはむなしい努力をする。そして、間違ってるっぽいと思いながらも、自分はきっと間違ってると言いながら間違ってることを言ったりもする。

意味の厚さと薄さ。できれば僕は僕の発言に含まれる言葉のなるべく多くを、意味の厚いものにしていきたい。それは読者にとって僕の発言が有意義かどうかとは直接関係がない。きっと確信が欲しいのだろう。意味の厚い言葉は、経験と必然性に裏付けられている。それはかりに間違っていたとしても、意味のある言葉だ(本人にとっては)。

そう思う一方で、意味の薄い言葉が中核的なアイデアに付け加わるとき、自分の世界がひとつ塗り替えられていく感触もある。中核的なアイデアはひとつのこだわりだ。そのアイデアは思いついた後も、食事をしたり買い物に出たりした後も、頭にとどまり続ける。同じアイデアが頭にとどまっていることは、世界が停滞していることでもある。そのときにアイデアをアイデアのまま吐き出すのもいい。言葉にされたことは過去になる。でも、アイデアに余計な一言を足すのも、悪くないと思う。見栄えとしては美しくないかもしれない。でも、自分のこだわりのアイデアに、その場の根拠付けのような薄い言葉であっても関連させて続けてみると、そのアイデア自身の現れ方も変わる。まあ驚くべきことではない。新しく考えつかれたことに囲まれて、すでにアイデア自身が主題ではなくなっていく。僕が文章を書くとき、考えをそのつどアウトプットしないまま、いろんな考えが頭の中で飽和状態になってから書き始めたりする。そんなとき、いろんなことを思い出し、あるいは思いついたりして、もとのアイデアをゆったりと提示するどころではなくなる。出てきたものを見るとどれが主題だかわからなくなっている。ほんとのことをいえば、アイデアなんて重要じゃないと感じているのだ。もとのアイデアが、「言いたい」という気持ちを引き出すものであることは変わりない。でも、べつにもとのアイデアを中心に展開させて書きたいという気持ちはあまりないんだろう。アイデアの正しさに確信をもっているわけではないからだ。それはむしろ、多くの場合間違っているんだから、ただ言いたいことを言っただけで僕は満足して、関連したことを新しく考え始めてしまう。いや、飽和状態になってから書くのがいけないんだろうな。

ルビコンまんじゅう

「愛とは何か」という問いに長い間ピンときてなかった。なぜ愛が問題になるのかわからなかった。というか愛という概念を了解していなかった。愛がなんだかわからなかったのだ。でも「愛とは何か」と問う人の動機も、まさしく「愛がなんだかわからない」という困惑であったに違いない。では愛がわからない僕が愛について問うことなんか思いもよらなかった一方で、愛がわからない彼が愛についての問いを切実でリアルなものと受け止めていたのはなぜか。たぶん多くの「哲学的な」問いと同じく、愛について問えるということは、知っているけど知っていないという事態を出発点としている。そこには時間について問うアウグスティヌスよろしく「愛について知っているけど、説明しようとすると愛について知っていない」という逆説が織り込まれていただろう。でも僕は単に愛について知らなかったので、愛について問えなかった。問う必然性を理解しなかった。愛って好きの言い換えでしょ。そう思ったわけである。好きであることに不思議なことなんかない。(いや、あるのだろうけど、愛について問う人の問い方は、好きであることの不思議への問いの匂いをもっていなかった) 要するに、「なぜこの世界はあるのだろう」みたいな素朴な問い、純粋に疑問の解決を目指す問いでは、それはなかった。先走って言い表してみるなら、現実の改善を目指す問いだ。確かに愛は好きを出発点とする。家族に対する愛も、異性に対する愛も、羊に対する愛も、コーラの空き瓶に対する愛も、まずはそれらが好きだということからはじまっている。そのあいだはいい。好きはポジティブな感情だ。純粋にただ好きなものがあると生きるのが軽くなる。でも愛への問いにつながる裂け目もまた、この「好き」の中に孕まれている。君は今、「純粋に好き」と言った。でも純粋に好きなんてことがほんとうにあるのだろうか? 純粋に見返りを求めない一方的で無害な愛だと思いつつ、実は見返りを求めているんじゃないだろうか。君がその人を好きなのは、その人が君を受け入れてくれる/くれそうだからじゃないのか? そういう疑いが生じたとき、自分が無邪気に抱えている「好き」という思いがぐらつく。ぐらつくのはもちろん、その疑いにリアルなものを感じるからこそだが。
なるほど。僕は彼女のことが好きだ。でも同時にそれは、彼女から何事かが得られることを期待しての、「好き」なのだ。でもどうだろう、この2点が揃ったからといって、べつに現実が耐えきれず崩壊したりはしないのではないか。つまり、「好き」ということはあらかじめ自己利益を前提とした感情なのかーと納得すればよいのであって、そこで「好き」に自己利益が忍び込んでいたからといって「ほんとは好きではないのだ」と結論しちゃうのはいかがなものかと。うーん、でも、僕のそれはもともとは自己利益をぬきにした「好き」ではなかったのだろうか。僕が 808 State の音楽を好きであるように。僕は 808 State の音楽をただ聴くだけでよいのであり、それ以上のことを求めない(求めえない)。それと同じように、僕は彼女の存在をただ感じるだけで、彼女という太陽から流れ出る光にあずかるだけでよかったのであり、それ以上を要求していなかったのではないか。うんぬん、調子づいて当初予定していた内容をはみだして色々考えたくなってしまう時点で、好きとか愛とかいうことには問題にしたくなるだけの複雑さ・深みがあることはわかった。ところで「好き」という言葉ベースでここまでの論述が書き切れてしまったことを顧みるに、やはり愛というのは「好き」を高尚に言っただけのように思われる。(その一方、「愛する」という動詞は、「好き」にはない内容が含まれているように思う、けど、わからない――と言いたい一面、僕には「愛する」がどういうことなのかなんとなくわかってしまう部分もある。あまりよくないことのような気もする。でも、どっちでもいいことのような気もする。) 要するに、「好き」という素朴な感情に欺瞞性を見出してしまった人の一部は(あるいは大部分は)、「愛」という概念を創出して、そこに理想的な「好き」の原型を託そうとする。自己利益にひたされた「好き」でない、ほんものの「愛」がどこかにあるんだと。その本物の愛の内実は人によって違っていて、ひとつには自分を犠牲にしても相手を守る愛かもしれないし、ひとつにはどこまでも互いを対等に扱うなかに見出される愛かもしれないし、まあなんでもいいんだけど(ネタが尽きてきた)、ようするに色々試しつつすわりのいい体勢をさぐっているのかもしれないね。ともかく、この愛の問題ってやつも他の問題と同じく、「ほんとうの○○とは」という形態をとる、というか、そういう形態をとる問題の代表格なのかな。「教育とは」「真実とは」「クラシック音楽とは」。でも結局わからないのは、「好き」に自己利益が含まれてちゃなぜいけないのかということだし、そこを否定したいときになぜ「ほんとうの」というレイヤーが背後から登場できてしまうのかということだ。そりゃ、純粋に好きだと思ってたのがじつは純粋じゃないと気づいたらぎょっとするけど、そのぎょっとするのがすでに「純粋な好き」のなんたるかを前提してしまっているじゃないか。

舌根シャーベット

「だめ感」におそわれていた。就職活動がいっこうにうまくいかない。企業は減点法で選考してるらしいので、おかしな点が一つでもあればすぐ落とすそうだし、僕はどちらかというとおかしな挙動をしがちなほうで、半分くらいはどのおかしな点で落とされたかはわかる。でもこう蹴られ通しだと元気なくす。成功が続いてると人はどんどん能動的になり視野も広くなるが、失敗が続けばどんどん丸腰になって地面しか見えなくなる。もともとない自信がさらにひしゃげて、関係ないことにまで影響がおよぶ。成功とか失敗とかって哲学やってる身としては非本質的なことがらなんじゃないのってさっさと封印したい気もするけど、考えてみると人間の認知活動になかなか深く根を下ろしているヤツラなのかもしれない。愚かな一般化なんだけど一つのことで失敗すると「自分はだめな人間だ」って全人格的な否定が入ったようにしみていきますね。書き出してみると典型的な認知の歪みだ。そういえば、企業に不採用出されると「全人格を否定された」かのような気がするって話が前はピンと来なかったけど、今思うと描写の仕方の問題だな。人事の人にビッて人差し指向けられて「お前には価値がない!!」て言われてガーン!ってなるような感じなら僕はしなくて、どっちかというと「ああ・・・やっぱ俺ってダメなんだ・・・」って夕暮れの川辺を歩きながら毒がまわっていく感じ。「だめ感」が体にしみとおっていき、選考とは無関係ないろんな人と対するときにもヒクツになってしまう。あいさつがうまくできないとか。ヒクツになっているあいだ、「ああ・・・俺ってだめな奴・・・」って思う、そこがいちばんだめなところ。ひさびさになまぐさい悩みコーナーでした。内定でないのもあれだが自分がどんな仕事に適してるかみえない、視野が狭まっててよくない。

巻き尺鶏卵

散歩の話。散歩に出るとき、いつも違った道を歩く。といっても近所を歩くわけだから、道の数なんて高がしれてる。けれど今でも通ったことのない道がまだあるのも事実。そういう細い道を見つけては歩く。小さな道、少数の誰かが生活で使っている通路、そこに入ったときに開ける見慣れない景色が好きだ。ひとのプライベートに入り込みたいという好奇心に動かされているのかもしれない。散歩をしていて、結局はなにかを発見することが楽しい。いや、べつになにもみつからなくてもいい。その心構えはだいじだ。でも楽しいのは、やはり歩いていて何かを見つけること、何かに気づくことだ。古い看板とか、猫とか、道路標示のあせ具合とか。日曜日のたばこ屋を通りがかりに覗いたら老夫婦がたばこをふかしていたとか。

この道がこうつながるのかと感心することがある。自分がどこにいるか把握するのが下手だ。すべての道は直角に曲がっていて、すべての道と道は平行に延びている、少なくとも近似的にはそうだと思い込んでいる。右に曲がって左に曲がって、また左に曲がれば元の道に戻れると信じている。だがここは京都や札幌ではない。いま歩いている道から20度傾きをつけて支流に乗れば、あっというまに本流を見失ってしまう。大きなランドマークはあてにならない。距離感があてにならない。それでも欠落だらけの脳内地図情報を駆使して、だいたいの現在位置はどこか、この先どこに出るかの見当を付けておく。深い路地が続き、興奮しつつ歩みを進め、とうとう抜けたと思ったらよく知っている通り慣れた場所で、しばし立ち尽くす。まったく信じられなかった。

花金般若波羅蜜

レンタルサーバmySQL とかやろうという気を起こしていたけどインターネット資源をかるくさらってみるとあいかわらず敷居が高いですね。インストールの仕方について書かれたページはたくさんあるけど、 mySQL とかデータベースがどう役に立つのか、どんな場面に必須なのかが結局わからない。ま、専門的なものだから、技術を備えた人だけがさわれるようにしておくべきなのかもしれないね。
とり・みき『愛のさかあがり』届く。この人漫画家だけど自分の中では批評家として位置づけている。批評も漫画も的確。
▼そういえば、昼にぼんやりワイドショーを見ていて、グルメを口にしながら出演者がコメントするわけですけど、食べ物との対し方としてなにかずれていると感じた。おいしいものを食べてそれがいかにおいしいかを言い表す必要って、どこで生じるんだろうか。
▼昼にワイドショー見てたということはつまり、寝坊しました。昨晩寝る前に芽生えた悩みが夢の中にまで入り込んで、おなじ空間のまま覚醒しながら鋭い腹痛を経験し、夜2時くらいにトイレに入って下痢をした。苦しみはなくてなんの迷いもなく・かつ、折り目正しく排出されたので、それはよかったけど。それで疲れたりして寝坊したのかもしれない。いずれにせよ外出の予定はなかったし雨が降るという予報だったので引きこもるつもりでいた。
▼起き抜け、「存在することと発言することが等価であるツイッターのシステム」などとツイッターに書いた。実生活では、発言せずにその場にいるという存在の仕方をしていることが多いので、ツイッターという場に投げ入れられるだけで僕は存在の90パーセントがカットされる、困ったなあ、というような。それにしても僕はTwitterの話とか、前ならブログと日記についてとか、言葉のこととか、メタレベルの話ばかりしている気がする。オブジェクトの世界に一歩踏み出すことをせずに。踏み出すなんて表現が出てくるのは、メタレベルの話をすることが、逃げるための方策として使われるのがしばしばだってことなのかな、やはり。いや、これ、自分のためになるかならないかって関心でのみ有効な話ですけどね。
▼詩っぽいものを散発的に試みてるわけだが、これは長いものを書いてしまうと、とたんに良し悪しがわからなくなるというか、均質なある無敵ゾーンに入ってしまう気がする。日記もそんなところがある。とりあえず2000字書けって僕は指導してる(指導を受ける者がいないが)。いや、単に集中力が途切れやすくて審美眼がすぐ鈍ってくるからだと思うけど。
▼「雨が降って、空気が沈んで褪せているから、とくに理由もなく悲しい。」とメモにある。理由のない感情なんてあるんだろうか。原因はあるにしても、はっきりこれが悲しいと言えない悲しさだった。さみしさとも違った。どちらかというと快楽だった。人には会いたくなったけども。
▼夕方、長靴をはいて傘をさして散歩に出た。舗装された川沿いを歩いた。言葉のない世界、結局僕は言葉がないほうが静かで好きなのだ。意味がない方が。本来意味があるものなんて世界には一握りしかない。人生には意味がないと言う人がいるが、むしろ世の中に意味があるものがあるとしたらそれは人生くらいのものなんじゃないだろうか。田村隆一「帰途」を、また読み返す。