楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

奇声を上げるよ楡男

このブログのアクセス解析みたら、今月16日のアクセスがこの日だけ飛びぬけて多くて、何かしたっけなーと思っている昨今です。昨今ではないですが。Twitterのログ見てみると、この日にパソコンがぶっ壊れたんだね。そう、パソコンがぶっ壊れたのです。朝からつけっぱで、スリープはさせてたんだけど、電源入りっぱなしで労働させたのが悪かったのか(今考えると悪かった。パソコンにはやさしくしなければならない)、だんだん考える時間(カーソルが砂時計になってる時間)が長くなって、おいおい大丈夫かという気はしていたものの楽観的に作業を続けて、とうとう考え中のまま動かなくなったので仕方なく強制的に電源落として再起動しようとしたら、起動しなくなった。長い。泣きたい。こんなくだらないことで何百文字も書くのやめたい。でもやめられない……。書いてしまったということは、いずれどこかで書かれなければならなかったことであり、誰かに話されなければならなかったことだ。チラシの裏……。おもしろい話だけを聞こうという姿勢に、どうして人は進化してしまったのだろう。詠嘆。必要なことだけを選んで話せるようになるのはおじいちゃんになってからでいいよ。

ひさしぶりに日記書いているのでいつもとちがうテンションです。しかし書くことに手ごたえを感じる。自分の考えや気持ちを整理する場所は、僕にとっては歩くことと書くことなんだよね。今日も散歩に出た。学校が早く終わったので、まずカラオケに行こうと思った。ちょっと時間ができるとカラオケに行こうとする習性が僕にはあって、でも秋になっていた。気温が下がれば、空気がつめたくなれば、さびしくなる。季節柄と最近あったあることとがクロスに作用して思いつめた気分でいた。ここでカラオケに行っても空振りに終わるだろうし、なんなら後悔もするんじゃないかと経験的に予測された。それでもなじんだ手順に固執しようとしてしまう心のかたくなさ。軽い心理的葛藤の中、「手慣れた選択肢を捨てて新しいやりかたを採用するときは、手慣れた選択肢がもつ見通しのよさがそこにないのは当然だから、それは新しいやりかたを採用しない理由にはならない」という理屈を発明して、某駅に降り立った。2年前にアルバイトしていた場所、の近所。バイト先への思い入れではなくて、川があって、川を見ようと思った。

書いてたらそのときの感じを思い出した、それを追体験的に感じはじめた。なんとなく泣きたい気分だけど涙が出にくいように設計されてるのでなんかよくわからない。結果的に「はぁああぁぁーあーーああ」みたいな奇声が漏れる。でも声が出るだけいい。声があれば人に呼びかけることができる。それでフランクフルトを食べたりした後に川を見ました。河川敷は広くて、遠くに電車が通って、、でかいものを見るのが精神的にいいみたいだ。奥多摩のときも思ったけど。川が流れているのを見るのが好きだ。なぜ好きなのかといわれてもそれは知らない。癒されるとかいうわけじゃない。エネルギーを与えてくれるとかじゃない。なんかの効用を求めて川を見るわけじゃないから、川に裏切られることもない。ただ流れてる。風が吹いてて、つねに世界が動きつつあることを了解したりはする。あるいは、人間の言説につきまとう目的・手段という基本構成に思いをいたしてみたりもする。でもそのためじゃない。考えるためじゃない。とか考えながらキーボードを叩いてたら、なぜかしんみりしてきてしまった。書きながら泣けてくるとか、かなりおめでたい境地にきてるんじゃないだろうか。はぁー。

目的とそれを達成する手段、という基本構成は人間の思惟の奥深くに根づいていて、でもそれは原初的な状態ではなくって、人間がどこかの段階で装備するものなのだ――ってそんなことを、けっこう前からひそかに確信している。確証はないけど。大人になるにつれてこの基本構成に染まっていく感じがしている。何するにせよ目的が所与のものとなっていて、それを効率よく・エレガントに達成することで気持ちよくなる。それはそれで豊穣な世界だ。そこそこのスペックのパソコンを安く手に入れるには、どんな店に行けばいいか。スペックの条件は、いまのパソコンに求められる最低限のラインはなんだろう。プロセッサのコアがどう、メモリがどう、とか。

でも、その方法を拡張して、さびしさを消すために何かするとか、生きる意味を見つけるためにどうすればいいとか、そう考え出すと、誰でも罠にはまってしまう印象がある。それは「さびしさ」や「たいくつ」や「生きる意味」を全体から切り出して、対象化することに起因している、気がする。でもはっきりした説明はできない。そういえば途中まで読んで放置している『ACTをはじめる』という心理療法の本に、これと似た気分のことが書かれている。それはともかく。

しかしこんなこと考えたり実践したりしていると、つまり目的と手段の基本構成から外れるということは、人との間で語るべきことをもたなくなるということで、卑近なことを言えば履歴書とか企業の面接で使うネタがないし、はっきりした趣味が自分にないのも、なんか結局このへんの態度に根っこがあるのかな。日記を書いたり散歩するのをふつう趣味とは言わんだろうしなあ。趣味ってなんだろう、昔から気になりつつまじめに考えたことはないけど。

段落ごとの文章量が落ちてきたのでこのへんでおわりにします。最近、インターネットを介して知った人に実際に会うということをはじめてしました。その人の顔とか声を知った上でその人の書いたものを読むと、ふしぎと統一が与えられる気がします。これとこれを同じ人が書いたのが納得できるというか。

はい。おしまい。