楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

魔窟に巻き寿司

早朝に胃液が上がってきて気持ち悪かった。前日もそうだったような。今日は体調は悪くなかったけど結局これといった活動をしなかった。お盆休みは今日まででした。

日没後になってようやく人間らしい活動をしようかという気持ちが芽生える。光の問題なのか、体内時計が狂っているのか、その他の心理的な要因なのか、よくわからない。夜にごはんを食べに行った。近所の、でも最寄りではないCoCo壱番屋に、自転車で行った。15分ぐらいかけて。夜は涼しかった。30℃を切ると涼しさは一応感じる。もちろん汗はかくけど。川のそばを走ればさらに涼しい。

過去のことを思い出せない。ランダムアクセスができない。何かを書こうとするときは芋づる式に連想が引き出されるもので、基本的にはその流れに乗っていればいいんだけど、何かの拍子で流れから追い出されたり、あるいは流れに割り込んで言及しておきたい話題があるとき、ランダムアクセス的な頭の使い方をする。考えてみると私はこれがとても苦手だ。今ある場所の近くにあるものしか取れない。昨日の夕食の献立を思い出すみたいなこと。タグがあって、そのタグに紐づく情報を頭の中から取り出してくること。それは努力の居ることだ。誰でも大なり小なりそうかもしれないが。

上の段落の話をして、それを前置きとして何を話そうとしていたのか忘れた。とにかく自転車で出かけようと決心したのだった。夕食を摂る必要があった。作っても良かったけど材料が足りておらず、いずれにしても買い物に出かける必要があった。あまりにも引きこもりが続いていて、少し外を歩いてきたいなという気持ちもあったし、それなら自転車で少し運動してもいいと思った。自転車で出かけることで、知っている道が少しずつ増えていくのもいいことだろう。そこまで考えが固まってきても、出かけるには勇気がいるもので、今日は動かなすぎて胸の辺りが少し苦しい感じもあったし、それで自転車に乗って何かの発作でも起こしたらどうなるんだろうなどと考えてしまう。うそ。そこまで具体的なことは考えなかったが、「それで自転車に乗って大丈夫だろうか」という漠然とした声がけが響く。何か行動しようとするとき、「大丈夫だろうか」と声がする。何を心配しているのかは明かされない。というか声の主もそこまで考えてはいない。もし発作を起こすことがあるなら、その前触れが多くの場合あるだろうし(突然目の前が真っ暗になることはあまりないだろう)、少し行ってみて具合が悪そうなら引き返してくることもできる。この〈引き返すこともできる〉という考えに私は至らないことが多い。そしてやっかいなことにこれは認識を改めれば済むという話でもなく、自分にとって快適でない状況に置かれたときに、そこから自力で引き返せないことも実際に多い。ここで念頭に置いている例は、もう5年ぐらい前の職場の宴会で、2次会でカラオケに行って、そこで音がすごすぎて、疲れても「このへんで帰ろう」という判断ができなくなったという例である。たしかに古い例だけど、そのあたりでだいぶ懲りて、自力で脱出できない場所には近寄らないようにしたということでもある。

家で過ごすのは安心だけど自分をだめにしてしまう性能が高く、外に出ていろいろなものに出会いたいけどだいたい翻弄されて帰ってくる。外には自分の居場所だと思える場所がほとんどなく、だいたい居心地悪くて用事を済ませたらすぐに出たくなる。外は危険がいっぱい、あるいは私に侵食してくるノイズがいっぱい。だから無性に外に出たくない。外に出ることにいつも得体の知れないハードルを感じている。それはある種の防衛機構なのかもしれない。でも大なり小なり他の人もそうかもしれなくて、用事がなければ外には出たくないという人も大勢いるだろう。ただ、部屋の中にいると部屋の中の時間がすべてに見えてきて、ずっと白い時間が続くかのように思われる。それは私を生きることから遠ざけている、ように見える日もある。

日に日に日記の分量が増えているし、日に日に何もしなくなっている気がする。むかし引きこもりだと自称する人が毎日10000字ぐらい上げているブログがあって、私はあまりに長いので読んでいなかったけども印象には残っていて、何もしないにつれて文章量は増えていくものなのかもしれない。