楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

『川柳EXPO 2026 -柳-』で面白かった一句

つづき。記事趣旨や本の入手方法は「川」編の記事を参照。

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コーナーを回る一人だけの時間/郷田みや

「コーナー」はカーレースなどにおける走路のカーブのことかなと思った。だとすれば周囲には多くの車や、あるいは競馬なら馬などがいるはずで、その想定のなかで「一人」と言われると、とたんに周囲のマシンや競争相手たちがふっと消えたような心地になる。集団の中の孤独。それは「ゾーンに入る」と言われる状態を表現したものなのかもしれないし、実際に、優れたレーサーがそのように語ることがあってもおかしくない気がする。

なんだけど。なんかこの句、すごくゆっくり「回」っている気がするんですよ。確かに、ゾーンに入ると周りがスローモーションに見えると言われたりもするけど、それにしても回り終わらない。この遅さは〈回る〉という動詞のせいなんだろうか。回転運動の意味とともに、巡回の意味も感じる。してみると、「コーナー」という語も、「おたよりのコーナー」みたいに、ラジオ番組にいろいろなコーナーがあるというときのそれに見えなくもない。一つのカーブを曲がっているのではなく、多くのコーナーを渡り歩いている。「一人だけ」も、〈誰にも邪魔されず〉という響きを伴っているような。もし「一人きり」なら〈集団の中の孤独〉味が強くなるところだ。

リズム面での注目は、中七以降が 回る/一人/だけの/時間 と三音ずつ区切れるようになっていて、ころころ転がっていく印象を受ける。あるいは落葉がひらひら舞うような。音的にも循環がある、「回」的なものがある。

輪郭に沿って流れるユーラシア/蟹口和枝

語りがいのある句、ではないかもしれない。でも川柳において「語りがい」は副次的なものでしかないとも思う。いい句だと思う。

「ユーラシア」。大陸を指しているだろう。海の上をぷかぷか浮いているユーラシア大陸がうっすら見える。だけどスケールが大きすぎて鮮明には想像できない。大きさだけでなく、アフリカやアメリカ、オーストラリアなどのような捉えやすい形をユーラシアはもっていない。デフォルメがしにくい形。そもそも、その名前は「アジアとヨーロッパの総称」*1である。いろいろな料理の総称である「煮込み料理」が一つの決まった姿を持たないように、「ユーラシア」の存在は希薄だ。

「輪郭」は、世界地図におけるユーラシア大陸の海岸線を指しているようにも見える。だが、自身の輪郭に沿って自身が流れるなんておかしいではないか。でも本当にそう言っているような気もする。それは〈運命に導かれる〉というようなことの言い換えに聞こえる。ユーラシアが自己の内(「内」? 輪郭は内か外か問題)にあらかじめ可能性として秘めている航路、それを「輪郭」と表現しているのか。

実は、人の顔の「輪郭」のようにも感じる。顔の周りに沿ってユーラシア大陸が流れていったらくすぐったいだろう。どう読んでも楽しめる。句の語り口はあくまで冷静で、俯瞰的に事実だけを伝える口調だ。

大納言あずき・橋本みずきペア/京野正午

連作に目を通せばすぐわかるように、「大納言あずき」はサーティーワンアイスクリームのフレーバー名である。そして、「大納言あずき」を「橋本みずき」と並べることで、スポーツ選手のペアか何かに見立てる趣向であることもすぐにわかる。誰々・誰々ペアという構文*2が、そのような趣向であることを一瞬で伝えていてスマート。フレーバー名の中でも人名として読めそうなものを選定する手つきの正確さがあり、その名前の響きに沿いつつも「大納言~」に添えるというよりは対等の存在感を放つ「橋本みずき」の選び出し、ともに無駄がなく、巧みなつくりの句だと思う。中七の 3~4 音目の境界に中黒が来るのもリズミカル*3。この「ペア」、私はバドミントンあたりを想像したけど、検索するとゴルフに橋本美月という選手がいるという。でもゴルフにペアというイメージはあまりないからこの名前は創作なのかもしれない。

大納言あずきは人名っぽいんだけど、「てっきり人名かと思った」というよりは人名に「擬態している」ような感じがあって、そこが面白さにつながっている。姓+名というよりは、「大納言」が所属グループ名で「あずき」が芸名なのかもしれない。そういえばお笑いコンビで「納言」の「幸(みゆき)」という人がいたことを思い出す。

鬱という鮮度で生きている私/みしまゆう

「鮮度」が発見で、それは言葉上の発見ではなく事実の発見、あるいは認識の発見だ。そこにこの句の、簡単には崩れない強さがあると思う。

鮮度には高い/低いがあり、その数直線のどこか一点を指す矢印が「という」なのだろうか。「私」を取り巻く変化しつつある世界の現在地を「鬱」という言葉が指している。そしてそれが「鮮度」という見地から把握されている。お刺身などについて「鮮度が落ちる」という言い方もあるが、しかしそれも〈本来は新鮮なものだ〉という認識と背中合わせであることを思えば、この「鮮度」という言いなしからは〈新鮮さ〉の成分を見出したい。鬱という新鮮さ。

「で」は多義的で、一般論としてもそうだし*4、この句の中においてもそうだ。いま・ここ、現在地を指す「において」の意味もあるし、「によって」の意味も感じる。鬱という鮮度によって生かされている。そしてここでは多義性が「読みブレ」をもたらすような仕方ではたらくのではなく、むしろ複数の微妙なニュアンスを同居させるような仕方で活かされている。この一音が引き受けている。

闊歩する舌を姉だとよろこんだ/千葉羅点

読みやすい川柳だと思う。上から下まで*5止まらずに読み通せる。一句を「読み通す」というのも変かもしれないけど、けっこう多くの川柳が、私が読むときは十七音のどこかでつまずいている。

川柳がもちうる良さの一つとして、読んだ後忘れられる、ということがあると思っていて、そこで川柳はあなたの中に何も残していかない。残るのはただ一句を読んだという事実のみだ。

「闊歩する舌」をなにかしら想像することはできて、舌が人間サイズになって手足が生えていてもいいし、ヒトデみたいに一部が伸びて足の役割をしたりしてもいいんだと思うけど、そういう努力以前に私は「闊歩する舌」という言葉の実在性を受け入れている。もとから了解している。「姉だとよろこんだ」は、句の行為主体が女兄弟を欲しがっていて、「闊歩する舌」が目の前に現れたときにそれを「姉」だと認識して「よろこんだ」のかもしれないが、そのようにして〈読む〉ことの見返りをこの句は与えてこない。だから、これは検算のようなものにすぎない。

この句は形が整っているために気付きにくいけれど、言葉同士がおおらかに組み合わされているのがこの作家の特徴ではないかと思う。文法的には正しいけど、語法的には緊密でないというか。でも違和感を与えるようなズレではなく、遠目で見ると一つの絵になってるみたいな。他の句で言うと「その名から紅茶の海を転覆す」は「から」が多義的(由来? 動作の起点?)だし、「その名」の「その」って何を指してるの? と思うし、「海を転覆」は想像しがたい(海はむしろその上で何かが転覆する場所としてある)、なのに不思議とスッと通れてしまう。作品の性質というよりは、読み手としての相性なのかもしれないけど。

ひとを出汁にしてけいはんも運んだ/公共プール

これは一句で抜き出しても成り立つ句というよりは、連作の中で読むことで意味がわかる句かもしれない。いや、意味はわからないけど文脈が与えられる。詳しくは本書を見てもらうとして、この文章の中で必要な情報としては、何人かが飲食店にいて、鶏飯を注文したという設定で読んだというところ。

鶏飯なので、「出汁」からは鶏肉やしいたけのダシをひとまず思う。おいしい。同時に、「(人を)だしにする/だしに使う」という言い方があるため、なにか、人間の骨でとったスープ、みたいなことは特に頭をよぎらなかった。

「も」が面白くて、「鶏飯を運んだ」だと人の動作の説明になるところ、動作主の所在を曖昧にする効果をあげていると思う。「けいはん」がむしろ主語であるように感じられる。鶏飯が自らを運んだ。何か別のもう一品と鶏飯、という意味の「も」ではなく、たとえば「私もいるよ」と近しい人に告げるとき、AさんやBさんがいるところに「私」という頭数が加わる、という以上の意味をもつ、いわばそういうときの「も」に近いのではないか。風に運ばれるように、あるいは天体の運行のように、鶏飯は目の前に来た。「ひとを出汁に」する、というきっかけを推進力として。

十七音ではあるけど五七五の切れ目を踏むのではなくその上を漂うような組み立てになっている。意味のまとまりで切るなら「ひとを出汁にして/けいはんも運んだ」だろうけど、切るには各々のパーツの独立性が弱く、むしろ一息で読み切ってしまいたくなる。その結節点のなさが、韻文らしさというよりは〈語り〉のような効果をもたらしている。当事者の認識を詠んでいるのではなく、映像に対するナレーションに聞こえる。

*1:大辞林第4版

*2:文 (sentence) というよりも句 (phrase) なので「構句」などと言うべきなのだろうか

*3:中黒を無音で読むべしということではなく、どちらかというと意味の区切りというか、視覚の息継ぎというか、そういうものが入っているように感じる

*4:手元の『岩波国語辞典』第 7 版では格助詞の「で」について、ざっと 7 つの意味に分けて説明されている

*5:実際の活字では縦書き