楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

目出し帽も迷宮入り

つい先月ぐらいから化粧水を使うようになったんだけど、それで今日ふと思い出した。大学生のころ、市販の化粧品が信じられなくて(よくわからない成分がたくさん入っているから。)自分でグリセリン水を作って使っていたことがある。作り方はネットで見たんだと思う。当時はタモリ式入浴法もやってたし、風呂上がる前に身体に塩を塗るという(浸透圧がなんちゃらという説明があったけど、十分理解してはいなかった)今思うとヤバそうな代替療法もいろいろと試していた。今の自分なら皮膚科行きなよと助言するだろう。皮膚科でステロイドを処方してもらえ、それで湿疹を一旦治したら市販薬でもメンテナンスできるようになるよ、と言うだろうけど、当時の自分の医療不信ってなんだったんだろな。小さい頃から病院は通ってて、でも症状が決定的に改善することが結局なかった、という挫折経験がそういう考えにさせたのかもしれない。確かに薬を処方してもらうだけではだめで、塗り方も重要だったし、なによりストレス要因を取り除けなければ決定的な改善は望めなかったんだと思う。ひとこと助言して解決するものではない。

皮膚科に行かないようになったのは高校生のある時期だったか。あるとき、なぜか病院に行くのを私が拒んで、湿疹が悪化していたので風呂にも入らず(しみるので。)、ふとんで寝るのもしんどかったのでソファで寝たらさらに悪化した、という記憶が、色褪せている記憶がある。よほど強情だったんだろうか。両親が病院に連れて行かなかったのが今思うと不思議だ。両親にとっても無力感はあったのかもしれない。特に根拠のない、まったくの推測だけど。

冒頭で言及したグリセリン水は、フィルムケースに入れたもので、スキンケアする人ならわかると思うけどそんなの一回分にも足りなかったはずなのよね。でもそれに気付けたのが30代半ばになったようやく今で、時間がかかりましたねと自分でも思わず言いたくなる。我流というのはとてもとても遠回りな道でもある。グリセリン水の自作というアプローチが間違いではなかったにしても、適切な使用法を知らなければ「効果」にはたどり着けない。市販の化粧水を使って、使い方がわかって、そこから自作に進むというのが適切な順序なんだと思うけど、私の場合は市販品が信用できないという猜疑心から出発していたからまあ袋小路のようなものだった。

最近使ってるヒアルロン酸入りの化粧水の使用感がどうも合わなくて、ベタベタして糊を塗っているようだ……でもこの感じは初めてではない気がする……というところから冒頭のグリセリン水のことを思い出し、書き始めたら芋づる式にさらに昔のことを思い出す、という次第でした。読んでくれてありがとうございます(たぶんそのうち言わなくなる、のかな)。

過去分詞専門店

ごあいさつ(こういう構成になった理由は本文の最後の方を見てね)

こんにちは、皆さん。面白でもお役立ちでもない、ひとかどの人物がやっているわけでもないこのブログを見にきてくれる人がいるのは、とてもかけがえのないことだと思います。私の文章に注意を向けてくださって、いつもありがとうございます。

いつもの本文

断片的なことがら。

育ちの良さ悪さってあるよなあと思う。私は「育ちが悪い」ほうに属していると思っている。なんでも教育のせいにしちゃいかんし、親の育て方が悪いなどとは言いたくないんだけども(実際、両親は自分のことを思ってたくさんのことをしてくれたと思う)、なんだろ、社会階層というのかな、生まれの条件によっておのずと重ねてきた経験の質が異なるみたいなことはあるんだろうな。それによってものの見え方すら根本的に異なるということが起こる。

うーん、「育ちが良い/悪い」という表現はミスリーディングかもしれない。育ちというか「出自」とかのほうがしっくりくるような気もする。むかしとある読書会で、日本では階級とかってあまり意識しないよねという趣旨の発言をしたけど、見えにくくなっているだけで高い/低いの傾斜はあるんだよね。

コミュニケーションのことを最近よく考える。謝罪するときには前置きは不要だ(前置きをつけることはむしろ失礼に当たる)と、ある人から指摘された。言われるまで知らなかった。わたしの言い方があまりにもゴニョゴニョしてて不愉快だったから、もあるかもしれないが。

自分はコミュニケーションが不得手だ、と昔から思い続けてきた。でも最近いろいろ考えたり経験したりしてわかったのは、「コミュニケーション」で一口で括られることがらの中には無数の具体的な規則が入っていて、それは自動車免許の学科試験で聞かれることたちよりもおそらくずっと複雑多様で、しかも多くの人はそれを瞬時に呼び出して遂行できるらしい、ということだ。……と書いてはみたけどどこか引っかかる。それを常識として要求できるのは「育ちが良い」人に限った話、ではあるかもしれない。それともみんな普通にできるのか。学校で習ってもいないのに。私のこんな言い草が、あなたにはどう見えるかを教えてほしい。

わたしの欲望は。わたしは自分を他人に理解してもらいたいんだなーって思った。理解されたいという欲望がある。現在の精神的異常を幼少期の体験に結びつける見方はいつも半信半疑で見ているけど、これに関してはわたしは欲望が満たされなかったんだろうな、と素直に納得する。もちろん自分自身が自己主張が異様に少ない子供だった(そして今も)ことには触れておかなければならない。公平のために。

なんかだいたい自分のせいな気がしてきた。もちろん、自分自身が幼少期からこうであること自体は、自分自身のせいではないのだが。でも、誰からも理解しようとされなかった、などということはない。母親は私のことを理解しようとしてくれた。自分の好きな料理を作ってくれたし、テレビに映る食べ物を自分の好きそうな食べ物だと言い当ててきた。言い当てられたのが決まり悪くて、素直に応じることができなかったけど。

長くなりました。自分の過ごしてきた時間、自分を形成してきた時間を解きほぐす責任は自分が負っているのだと思います。基本的には自分にしかできない仕事。そして、20年近く、なんとなーく私はインターネットで「私」を発信し続けてきたけど、その裏には「自分を理解してほしい」という欲望が張り付いていたんだなと今日わかりました。

だから、たぶん自分が思い続けていたこととはうらはらに、このブログは読者なしには成り立ちません。認めます。最初で最後の読者としての「自分」は意識しつつ。そして、おもしろでもお役立ちでもないこんな文章を読んでくださっている人がいるということ自体、奇跡的なことです。読んでくれているみなさん、ありがとうございます。

(感謝には前置きは不要という今日習ったセオリーをこの文章がフルスイングで裏切ってしまっていることに気づく。でも今の自分はこうするしかない。……と思ったけど、今からでもできることはあると思い、感謝の言葉を冒頭にも追加してみた)

駒込リファレンス

白髪は大学院生時代に一時期あるのに気づいて、気にしたり気にしなかったりしていたらいつのまにかなくなっていたんだけど、最近一本の白髪があることに気づいて、やはり気にしたりしなかったりしているんだけど、今回はなくなる気配がない。

壁に貼り付けられる小型の鏡を買って、流し台の上に取り付けた。流し台に立つと自分の顔が映るようになる。そうしたら台所で髭を剃れるようになった。いや、台所で髭を剃ること自体は以前からやっていて、ただ鏡がなかったので持ち運びできる立て鏡を持ち込んで冷蔵庫の上に置いて髭剃りをやっていたのだ。別に大した手間ではなくて、鏡の持ち運びも時間にして5秒程度だし、負担だとは思えなかったんだけど、しかし「その場に行くと鏡がある」という状況は、以前の〈その気になれば〉髭剃りもできるという状況とは根本的に異なるものがある。アフォーダンスという言葉を使っていいのかな、よく知らないんだけど。壁に取り付けられた鏡は、〈ここで髭を剃ってよい〉というメッセージを発している。許可されているどころか、促されている。

かしましホットスナック

今日の仕事終了。この木金は療養のために割り切って仕事の手をかなり休めてた。要するにサボってた。ほんとは、そういうときは休暇を取るのが正しいんだけど、

  • 緊急性の高い問い合わせが臨時で来る可能性が高い
  • 対応できるのが自分しかいない
  • 予定された(締め切りの近い)タスクはほとんどない

といった状況だったので、このようにさせてもらいました。まあ上2つが揃っているような職場ってどうなのと自分で書きながら思ったけど。あいかわらず、仕事が停滞しようと構わず休暇を取るのが正義にかなっているとは私も思うんだけれど、今回はこのようになりました。

今週末は三連休あるのでしっかり休むぞ。週の平均睡眠が7.5時間(就寝時間は8.5時間)ぐらいまで持っていけてるので、次は睡眠時間を平均8時間まで持っていきたい。さいわい今も22時を過ぎたぐらいで眠気は来るので、眠り足りてるってこともまだなさそうだ。

秘伝ごっこ

一日の終わりに、その日あったことや達成したこと・体調のことなどをiPhoneのボイスログに吹き込むことを最近のルーチンにしている。理由は──習慣としてなじんでくると、それを始めた理由はやがて忘れてしまう──、しゃべる練習をしたいということだった気がする。このあたりは自分の中でもあいまいである。理由が確固としてあるのではなく、「何か面白そう」が先にあり、理由はそれを後押しする。

しゃべる文体を身に付けたい。文体というのは書き言葉に対して言う言葉だから「しゃべる文体」は未熟な表現だろうが、今はこれがしっくりくる表現なのでこのままいく。ボイスログに吹き込む日々の中で、自分がそこで話しているというよりはこの日記に書くような文章を口から出力しようとしていることに気付いた。話しながら、あれも言わなきゃこれも言わなきゃと不定形の〈内容〉が湧き出てくる。それらに形を与えながら適切な順序に整え、しかもリアルタイムにそれを口から出しながらするのは至難の業だ。私の頭脳はその課題についていけない。そもそもしゃべるってそういうことじゃない気がする。

そういうことじゃない気がする。しかし、しゃべることがどういうものであるか、積極的な言葉で言うことができない。私はしゃべるということを知らないのか? 知らなかったのか? 今まで。確かに、会話らしきものに私が参加していると言える今までの場面を振り返ってみると、私がしていたのは他の出来事に対するリアクションか、「説明」のようなものであったかもしれない。外国語学習で言うと、リーディングはできるがリスニングはできない、みたいな状態だ。私は口頭でのコミュニケーションの一部しか習得していなかったらしい。

コンソメサイドバー

そういえば最近は「死にたい」と思う頻度がぐっと減ったなあと気付いた。私にとっての「死にたい」は、「これから起こる問題に自分は対処することができない」という無力感を伴っているとも気付いた。つまり端的な逃避の意味でその言葉を思っている。

何かが起こっても自分はそれに対処することができる、という意識が私はベースラインとして希薄である。「まあなんとかなるでしょ」という無鉄砲さをカンフル剤的に使用することはあるけれど、それは自信に基づくものではない。その代わりに、ひとたび何かが起これば自分はそれに巻き込まれ翻弄されるだけなのだ、という他力本願が自分の中にはびこっている。有意義な考え方には見えないが、簡単に取り去れるものではなく、一つずつほぐしていく必要があるだろう。