楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

いつもの訓読み

一日中寝てたいような空模様だ、1月ってこんな感じだっけ?」とTwitterに書いた。空が白くて薄暗い。こういう日に朝ふとんから出ずにまどろんでいるのは気持ちがいい。1月がいつもこんな感じなのかは知らない。思い出せない。わたしはこれでも天気のことを少しは気にするようになった。以前は、暑けりゃ脱ぐ、寒けりゃ着る、雨が降れば傘をさす、天候について気にすべきことはその程度だと思っていた。今は、日の最低気温と最高気温を把握して、このくらいの温度帯なら薄手のコートでもいいだろう、とか、そのくらいのことを考えることはしている。でも「そのくらい」ではある。こないだある人と話していて、天候に関する解像度(あまり好きではない言葉です)が違っていたので驚いた。解像度が違うと互いに話が通じ合わないのだ。関心の深さといってもいい。別に相手は気象予報士などではないのだから、相手の関心が深すぎるのではなく私の関心のほうが浅いということだろう。べつに天気を気にする気にしないで人間の値打ちが決まるものでもないだろうが、しかしなんにせよ、細かく見て、理解して、おぼえていることの価値。そこには付け焼き刃では太刀打ちできないものがある。

干し肉レーダー

風呂のお湯入れてる間に何か書くか。去年からかかずらっていたストレスのかかる仕事、その最後っ屁みたいなのが出てきてうんざりしながら残業してた。この会社やめるのは既定路線ではあるけど、改めて、早く辞めたい。この言葉はなんだか自分で言ってて物欲しそうな感じが出ているような気がするので言わない方がいい気がしていたが、その場での本心であったことには間違いない。この会社やめたい理由はこの1~2年間ぐらい時期によって考えたり考えなかったりだったけど、自分の中で一番しっくりくる理由は〈自分の仕事に誇りを持てない〉だった。何を立派なことを、この資本主義社会の中でそもそも生きていくには労働に従事するのがいちばん有力な選択肢なのだから、仕事で充実感を得ていなくても胸を張って「生きるために働いてます」と言えばいいのだが、いや、別に、仕事が嫌になったら辞めたらいいじゃん、状況が許せば、という常識的な判断を体現しようとしているだけなのだが。

月初にあった印象的な出来事の印象が薄れ始めたのを感じた。せっかく正気に戻ったのに。自分や自分にまつわるさまざまなことに向き合わなきゃと本を買い込んできても、前からやってくるイベントに気を取られている。重要度は劣るが緊急度が高いというアイツだ。人生とはそんなこと──重要なこととの出会いと、目の前のことに気を取られること──の繰り返しだという気もする。だから継続性、考えてきたことを考え継ぐこと、考え続けること、そのために工夫すべきなんだと思う。今年は紙の手帳を使ってみる。繰り返し立ち戻る拠点をつくりたい。

バリカタ讃歌

年始にあった出来事の残響がまだ続いていて、ことあるごとの内省の産物としてあまり直視したくなかった自分のことが定期的に掘り出されている。掘り出し物だ。

相変わらず、なんの面白みもないことを書くけれど(と、この話題では謙遜から始めたくなる)。私は他人といるのが苦手で、誰かといるときはもれなく緊張している。ガチガチではないけど常に一定量のバリアを張っているような(ATフィールドってやつね……)、常にやんわり防御体制をとっている。近しい関係になってもそうで、これまでに交際かそれに近い関係になった人にはほとんどもれなく〈楡といても楽しくない/楡は自分といても楽しそうに見えない〉という意味のことを告げられている。

ある程度の年齢を過ぎた頃からは家族に対してもよそよそしい感じになってしまった。というか、遠慮はずっとしていた。

年に何度か酒を飲みに行く大学時代の仲間は、数少ない気安い関係だといえて、彼らといるときはほとんど緊張していない。自分の深い部分を開くことはないが、まあそれは別に他の誰に対しても同じことだ。

その人の前でリラックスできるか、無防備でいられるかというのが、その人との関係性を測る一つのメルクマールになっているんだなあと思う。

ここまで挙げてきた事例を振り返ると、防御的と言いつつ、自分のことを批判してくるから心を開かないとかというのとも違うんだよな。先に触れた大学時代の仲間は自分のことを批判してくることもある。なんだろう。私という人間がどうあってほしいかという期待が特になさそうなところが気楽なのかな。ただ関係しているということによって成り立っている関係。

むかごに化かされて

自分のダークサイドを掘り起こしていきたい。このダークサイドとは「暗部」の意、文字通り隠れている部分の意味で言っていて、特に反道徳的だとか過激だとかいう部分のことでなくてもよく、いろいろの事情で直視せずに済ませてきた部分のことを言う。要するに、自分が自分自身のことを大して理解していないとわかったということだ。

見ずに済ませてきたのは、その内容が社会的規範に照らしてイケナイことだからとは限らず、単に「面倒臭いから」ないことにしてきた側面というのも多分にあるんじゃないかと思う。いちいち立ち止まって直視するのがリスクだという判断をしてきた。動かしていた手を一旦休めることや、立ち止まった結果として軌道修正を迫られることが「リスク」だと感じられる程度には、私から見て世界の回るスピードは目まぐるしかったんだと思う。だからこの戦略は、世界から振り落とされないためにやむを得ず編み出した戦略でもあった。得たものより失ったものの方が大きい気がしているが、でも自分自身くらいはその意義を認めてあげなきゃいけないなと思う。

犬笛の遠吠え

年末年始の振り返りをしておこう。

  • 2023/12/29 (金) 比較的のんびりと過ごす。RTA in Japan の中継を見ながら家計簿の入力などをしていた。夜に配信イベントで「ヒルカラナンデス」恒例年末スペシャル「クレナンデス」を視聴した。
  • 2023/12/30 (土) 2023年はタスクトラッキングに「Toggl Track」を使っていたんだけど、この日から「たすくま」に変えた。というか一昨年使っていたのに戻した。街に出て買い物。本など。カムジャタンという韓国料理が気になっていたので食べに行った。牛骨だしのスープ。エゴマの葉に興味があったんだけどあくまで臭み取りのようで、それ自体の味はほとんどしなかった。この日は行動範囲は狭かったのに歩数はやたら多かった気がする。
  • 2023/12/31 (日) 大掃除らしきものをする。いつもの掃除+ルーチンでは手をつけられていなかった箇所を拭き掃除など。ゴム手袋をつけて掃除をすると良い、という初歩的なことに気付く。気圧の異様な低下があり、一時体調を崩す。今年は実家の家族が風邪だったので年末年始も一人暮らしの自宅で過ごした。年越しそばも食べなかったし紅白などのテレビ番組も見ず、Twitterをだらだら見てたら翌年が訪れていた。
  • 2024/1/1 (月) なんか数学の問題に熱中していた。1000パターンの結果がランダムに出る(重複あり)くじ引きで、1000回引くと得られる結果のパターン数は幾つかみたいな問題。高校の知識で解けそうだけど解けなくて、プログラム書いて検証するかと思ったけどできなくて、延々悩んだ(こうやって要約すると簡単そうに見えるけど……一つ一つ整理して取り組まなかったのが敗因のような気もしている)。能登半島で大地震が起き、ラジオニュースに耳を預けながら過ごした。
  • 2024/1/2 (火) 雑貨屋に今年の手帳を買いに行ったり、ホームセンターに棚板を買いに行ったりした。半径1駅以内で完結する、よくある週末みたいな過ごし方だ。ここから数日は地震のことがあってTwitterはあまり投稿しなかった。
  • 2024/1/3 (水) 出かけようか迷って決められず、昼食後に横になって休憩したらそのまま眠ってしまい、夜まで活動できなかった。
  • 2024/1/4 (木) 某所に行き、ショッキングな目に遭って帰ってきた。
  • 2024/1/5 (金) 年末の仕事納め直前に打ち合わせを入れられてしまっていたので(その日は休んでますと私が言い出せなかったせいだが)、1時間だけ仕事した。日本赤十字社義援金口座が開いたので少しだけ送金した。部屋の片付けその1をした。棚からものを下ろして、不要なものを廃棄し、必要なものを載せ直す作業。どうしてかめっちゃつらかった。先代とか先々代のPCも廃棄することに決めて、Windowsの初期化作業をした。
  • 2024/1/6 (土) 午前中に歯医者の定期検診。それから部屋の片付けその2を敢行する。前日のような精神衛生の悪化はなかった。がむしゃらに動くのではなく、定期的にインターバルをとって冷静になる機会を作ったのがよかったかなと思う。街に出て買い物しようとするが、ほとんどネットで済ませるべきだということを思い知らされただけで退散する。PCは調べたら業者が思いのほかすぐに引き取ってくれるとのことで、すみやかに梱包作業をした。
  • 2024/1/7 (日) 予約していた整体に行く。帰りに街に来たら人込みがつらくてすぐに退散した。昼に天ぷらそばを食べる。かろうじてお正月らしいことをしたのはこれと、餅を買って食べたことぐらいか。ネットでApple Watchの注文をした。部屋の片付けその3で、一人暮らし始めた頃から溜め込んでいた衣類の半数以上をゴミ袋に詰めた。長期出張から戻ってきて初めてカレーを作った。トマトとショウガというメインアクターを買い忘れての状態で望んだがまあ食べられるものができた。
  • 2024/1/8 (月) こうして振り返るまでもなくこの連休は長いわりに〈おたのしみ〉をあまりしなかったなーと反省し、近場の景色のいい場所に行くことを計画する。しかし寝坊から始まり予定から4時間遅れでスケジュールは推移し、結局買い物して、いつもの路線を使わずちょっと遠回りして帰ってくる程度で終わった。それでも少しはお出かけ感はある。都心のApple StoreApple Watchを受け取った(Apple Storeの顧客体験がどういうふうに設計されているのか気になった)。大型書店を2件はしごした。ドムドムハンバーガーお好み焼きバーガーを食べた。

以上。11連休と長丁場で途中だれるのではないかと不安があったけど(実際なにもしなかった日もあるけど)、まあ休暇があればあるだけやることはあるんだなという感じですね。

粗熱サシェ

部屋の片付けその2をした。昨日のようなつらさはなかった。午前中から取り掛かったのが良かったかしらねえ。昨日のように終わらない仕事をしながら日が暮れていくと、深い森の中に取り残されたようにもう二度と帰れない気がしてくるので、そうならないようにしたのは良かった。あと、30分区切りで小休憩を入れて自分の様子をモニタリングして冷静になる時間を作ったのも良かったと思う。

それにしても脚がかゆくなる。乾燥もありつつ、ハウスダストやホコリのせいだと思う。

夕方に電車に乗って買い物に出た。 Apple Watch を買おうと思っていた。ビックカメラに着くと、店内放送がうるさくて耳栓を使い、 Apple Watch は果たして展示されていたが「へえこんな形してるんだ」と一瞥して店を出てしまった。家電量販店は店員が話しかけてくるのが苦手なのを忘れていた。別に実物見たとて色合いとかサイズ感がイメージと違うことぐらいは分かるけど、そのくらいといえばそのくらいだし。ネットで注文しよう。というか今やほとんどの品物は通販できる世の中になったのだから、わざわざ実店舗に足を運ぼうとするのは店員に詳しい話を聞きたい人が主なんじゃないだろうか。そう気付いたら、わざわざ店舗に来て店員を拒むような身のこなしをしていた私が何か嫌がらせに来たかのように映っている可能性に思い当たって恥じ入った。

ガムテープと単一電池を購入する用事もあったのでホームセンターとスーパーも渡り歩いた。私は人混みが苦手で、それは私の認識のペースがきわめてスローであることと関係している。何か一つのことを知るのに立ち止まってじっくり眺める必要があるのだが、人混みは人間に動き続けることを強いてくる。わからない→動く→わからない→動く……の無限ループ。図々しく同じ場所にとどまるという選択肢もあるが、それはあくまで図々しいことだと私は認識しており、そのような他人に迷惑をかけてはならないという規範もまた私の中にビルトインされている。この説明はことさら「人混み」と記述すべき混雑度にだけ適用されるものではなく、要するに人と人とが物理的に衝突するおそれが1分に1回はあるような環境なら十分にストレスフルだということだ。

……なんて格調高げに(どうでしょうか)語っているが、買い物中の私は、人とうまくすれ違いながら目当ての品物を探すだけのことがどうしてこんなにしんどいのかと天に問いかける程度には疲弊していた。自分の弱さに自分でびっくりする。いや、知ってたことだけど、なんか先日のことがあったからか他人と比べてしまうんだよね。過去の自分との相対評価で色々なことができるようになったねえと振り返るのは楽しいけど、いざ「普通」の水準をどこかに立てて比べ始めてしまうと自分のことがとてもとても卑小に思えてくる。その卑小さは自らの人生の意味みたいなところにもそのまま適用される。小さな虫のようにつぶされて終わりだと思えてくる。

そんなふうにして今日も心が沈む時間帯があった。2段落前に書いた気の散りやすさは優柔不断さにもつながっていて、 NewDays で明日の朝食のパンを買っておこうと店に入ったものの、3つの候補の中から絞れなくて(たかが一度の朝ごはんを決めるだけなのに、とその場でも思いながら、決めることができなかった)、結局買わずに出てきた。別の駅でもうすこし空いた NewDays を見つけ、最終的にサンドイッチを買うことができたが。こんな調子で今日や明日食うものすら決められずに帰宅することも結構多い。

夕食もあやうく食べずに帰宅することになりかけたが、電車の中で一息ついたら少し冷静になれたので、最寄りから1駅いったところのマイカリー食堂でカレーを食べて帰った。ガラ空きで、店にとっては嬉しくないだろうが私は嬉しかった。店内で、私の人生をマシにしていくためにこれから何をしようかをいくつか思いつき、iPhoneのメモに書きつけた。

私は何かを考えて何かがわかることが幸せなんだと思う。このように日記を書いていて各単語が適切に選ばれて論理のつながりにも納得のいく文章が出てきた時というのはその幸せの一例だ。今は休暇だからこうして〈考えて、わかる〉という活動が継続的にできている。もちろん頭の中で何かをこねくり回すことだけを言っているのではなく、出かけたり、歩いたり、(もっと機会増やしたいけど)おしゃべりしたり、家事をしたりという時間の中で考えは熟していく。

それができているうちはラッキーだが、それが許される状況というのはいとも簡単に崩れる。回りくどい書き方をしてしまったが、要するに私の不幸せのかなりの部分は私が一定の閾値以上に疲れていることに由来しているのではないかと直感したのだ。会社の勤務時間として仕事をまだ進める余力があったとしても、あるいは歩き続ける体力が残っていたとしても、すでに致命的に疲れてしまっているということがありうる。そのことに今までより敏感であろうと思う。