楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

粗熱サシェ

部屋の片付けその2をした。昨日のようなつらさはなかった。午前中から取り掛かったのが良かったかしらねえ。昨日のように終わらない仕事をしながら日が暮れていくと、深い森の中に取り残されたようにもう二度と帰れない気がしてくるので、そうならないようにしたのは良かった。あと、30分区切りで小休憩を入れて自分の様子をモニタリングして冷静になる時間を作ったのも良かったと思う。

それにしても脚がかゆくなる。乾燥もありつつ、ハウスダストやホコリのせいだと思う。

夕方に電車に乗って買い物に出た。 Apple Watch を買おうと思っていた。ビックカメラに着くと、店内放送がうるさくて耳栓を使い、 Apple Watch は果たして展示されていたが「へえこんな形してるんだ」と一瞥して店を出てしまった。家電量販店は店員が話しかけてくるのが苦手なのを忘れていた。別に実物見たとて色合いとかサイズ感がイメージと違うことぐらいは分かるけど、そのくらいといえばそのくらいだし。ネットで注文しよう。というか今やほとんどの品物は通販できる世の中になったのだから、わざわざ実店舗に足を運ぼうとするのは店員に詳しい話を聞きたい人が主なんじゃないだろうか。そう気付いたら、わざわざ店舗に来て店員を拒むような身のこなしをしていた私が何か嫌がらせに来たかのように映っている可能性に思い当たって恥じ入った。

ガムテープと単一電池を購入する用事もあったのでホームセンターとスーパーも渡り歩いた。私は人混みが苦手で、それは私の認識のペースがきわめてスローであることと関係している。何か一つのことを知るのに立ち止まってじっくり眺める必要があるのだが、人混みは人間に動き続けることを強いてくる。わからない→動く→わからない→動く……の無限ループ。図々しく同じ場所にとどまるという選択肢もあるが、それはあくまで図々しいことだと私は認識しており、そのような他人に迷惑をかけてはならないという規範もまた私の中にビルトインされている。この説明はことさら「人混み」と記述すべき混雑度にだけ適用されるものではなく、要するに人と人とが物理的に衝突するおそれが1分に1回はあるような環境なら十分にストレスフルだということだ。

……なんて格調高げに(どうでしょうか)語っているが、買い物中の私は、人とうまくすれ違いながら目当ての品物を探すだけのことがどうしてこんなにしんどいのかと天に問いかける程度には疲弊していた。自分の弱さに自分でびっくりする。いや、知ってたことだけど、なんか先日のことがあったからか他人と比べてしまうんだよね。過去の自分との相対評価で色々なことができるようになったねえと振り返るのは楽しいけど、いざ「普通」の水準をどこかに立てて比べ始めてしまうと自分のことがとてもとても卑小に思えてくる。その卑小さは自らの人生の意味みたいなところにもそのまま適用される。小さな虫のようにつぶされて終わりだと思えてくる。

そんなふうにして今日も心が沈む時間帯があった。2段落前に書いた気の散りやすさは優柔不断さにもつながっていて、 NewDays で明日の朝食のパンを買っておこうと店に入ったものの、3つの候補の中から絞れなくて(たかが一度の朝ごはんを決めるだけなのに、とその場でも思いながら、決めることができなかった)、結局買わずに出てきた。別の駅でもうすこし空いた NewDays を見つけ、最終的にサンドイッチを買うことができたが。こんな調子で今日や明日食うものすら決められずに帰宅することも結構多い。

夕食もあやうく食べずに帰宅することになりかけたが、電車の中で一息ついたら少し冷静になれたので、最寄りから1駅いったところのマイカリー食堂でカレーを食べて帰った。ガラ空きで、店にとっては嬉しくないだろうが私は嬉しかった。店内で、私の人生をマシにしていくためにこれから何をしようかをいくつか思いつき、iPhoneのメモに書きつけた。

私は何かを考えて何かがわかることが幸せなんだと思う。このように日記を書いていて各単語が適切に選ばれて論理のつながりにも納得のいく文章が出てきた時というのはその幸せの一例だ。今は休暇だからこうして〈考えて、わかる〉という活動が継続的にできている。もちろん頭の中で何かをこねくり回すことだけを言っているのではなく、出かけたり、歩いたり、(もっと機会増やしたいけど)おしゃべりしたり、家事をしたりという時間の中で考えは熟していく。

それができているうちはラッキーだが、それが許される状況というのはいとも簡単に崩れる。回りくどい書き方をしてしまったが、要するに私の不幸せのかなりの部分は私が一定の閾値以上に疲れていることに由来しているのではないかと直感したのだ。会社の勤務時間として仕事をまだ進める余力があったとしても、あるいは歩き続ける体力が残っていたとしても、すでに致命的に疲れてしまっているということがありうる。そのことに今までより敏感であろうと思う。