楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

焼肉構文

部屋の片付けをした。棚に載せていたいらないものを全部出して、捨てるものと残すものと棚に戻すものに分別した。作業スペースが狭い(部屋にものがありすぎる)のもあって3時間半かかった。部屋の片付けは無性につらい。ものを整理していると芋づる式に仕事が増えていき、収拾がつかなくなるから、というのが一つの理由だ。就職して残業し慣れていなかった頃に22時ぐらいまで残業することになった日の泣きそうな感じと同じものがあった。「帰れない」というのは文字通りとったとき恐怖だ。(永遠に)帰れないというのは。でもそれだけではない気がする。過去の記憶を掘り返されるアイテムに出会うのも一つの要因だ。自分の人生を見つめさせられる。でもそれでも説明し尽くせない気がする。つらいという感じは一体なんだろう。痛いとか苦しいとかのような手で触れられる実体がないけれど、時折それよりも耐えがたいものとして現れるその感じ。

今、ある程度片付いた部屋を眺めて(片付けはまだ途中だ)、すべきことをしたぞという満足感はある。でもトータルで見たら、片付け中のつらさと天秤にかけたら、到底釣り合うものではないと感じる。「到底」がつくぐらい、その最中はつらかったのだ。でも実はそれって山登りなんかとパラレルな関係かもしれないな。山登りのきつさと、登り終えたときの達成感を天秤にかけると、私ならきつさのほうが大きいと言う気がする。そして、それでも登り終えた達成感が山登りの苦労を払拭するとは言っていい気がする。それは両者を比較してそう言っているのではなく、単に、よい結果が得られるとそれまでの道のりが取るに足らないものだと思えてくるという、喉元過ぎればなんとやらということわざが語っている、人間の単なる現金さの話である。

でも繰り返しになるけれど片付けのつらさは山登りのつらさとは性格が異なり、なにかそれ自体が悪であると言いうるようなものだと感じた。過度の飲酒が悪であるのと似たような仕方で、人間が経験すべきでないタイプのつらさであると感じた。まったく感覚ベースの話でしかないけれど。

それにしても、つらい思いをして片付けをするのがもっぱら〈自分のため〉でしかありえないのは、なにか不条理であるという考えはつきまとう。もうちょっと言うと、それ自身が報酬であるどころか苦痛の源泉であるところのものに取り組んで、それで得られる効果が「部屋が少しスッキリする」であるのは、やはり割に合わないという感じが残る。コスパの話だよ。こんなことを平気で定期的にこなせるのが普通の人の人生だというのか。

昨日された罵倒のことをまだ反芻していて、しかしそうしていると自分は人間以下だというようなすべての人類にとって有害な呪いの言葉が再帰的にヒットし続ける状態になるので客観的に見てそれは一刻も早くやめたほうがいいと思う。そうでなくても最近は自分という人間の価値(って何?)を低く見積もるような言葉を自分に対してぶつけがちになっていたのに、その傾向が加速してしまっている。ブレーキが壊れている。

今年は11連休だけどやっぱり途中からだれてしまうんだねえ。