楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

バリカタ讃歌

年始にあった出来事の残響がまだ続いていて、ことあるごとの内省の産物としてあまり直視したくなかった自分のことが定期的に掘り出されている。掘り出し物だ。

相変わらず、なんの面白みもないことを書くけれど(と、この話題では謙遜から始めたくなる)。私は他人といるのが苦手で、誰かといるときはもれなく緊張している。ガチガチではないけど常に一定量のバリアを張っているような(ATフィールドってやつね……)、常にやんわり防御体制をとっている。近しい関係になってもそうで、これまでに交際かそれに近い関係になった人にはほとんどもれなく〈楡といても楽しくない/楡は自分といても楽しそうに見えない〉という意味のことを告げられている。

ある程度の年齢を過ぎた頃からは家族に対してもよそよそしい感じになってしまった。というか、遠慮はずっとしていた。

年に何度か酒を飲みに行く大学時代の仲間は、数少ない気安い関係だといえて、彼らといるときはほとんど緊張していない。自分の深い部分を開くことはないが、まあそれは別に他の誰に対しても同じことだ。

その人の前でリラックスできるか、無防備でいられるかというのが、その人との関係性を測る一つのメルクマールになっているんだなあと思う。

ここまで挙げてきた事例を振り返ると、防御的と言いつつ、自分のことを批判してくるから心を開かないとかというのとも違うんだよな。先に触れた大学時代の仲間は自分のことを批判してくることもある。なんだろう。私という人間がどうあってほしいかという期待が特になさそうなところが気楽なのかな。ただ関係しているということによって成り立っている関係。