楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

めぼしい芽ねぎ

外に出た。行こうとしていた場所が調べたら定休日で、もう全部やる気なくなったんだけど、それでも外に出るべきだとおもって頑張って外に出た。さいきん外に出なすぎていた。

書こうと思うこといろいろあったのに、ブログの編集画面を開いたら何も言葉が浮かばない。今にも体から言葉がこぼれそうなときと、すっかり枯れたみたいに出てこないときとがある。

ここ1週間ぐらいか、劣等感が強かったなと思う。結婚しているとか、車を持っているとか、何かに全力で打ち込んだ経験とか、そういう世間的なステータスのことを人間の価値を測るものだと短絡して、一人の人が現れてこの××みたいな人生から自分を救い出してほしいと、目をキョロキョロしていた。こういうのはほとんどが幼少期~義務教育ぐらいにフィクションやマスコミから刷り込みを受けた結果だと思っていて、新しい価値観をインストールしたと思っていても完全に消し去れるものでもないのだろう。孤立した環境で自分の頭だけで考える時間が増えてくると、過去に刻印されたそうした考えが目覚めて動き出す。

こういう考え方が一から十まで間違っているとまで言うつもりはないけど、これのまずさは、自分の力で人生をよくできる裁量のほうを極めて小さく見積もらせるということですね。

他人と目を合わせるのがめちゃくちゃ苦手なんですけど、道を歩いていると他人がすれ違いざまに自分の顔を見てくることが(ありふれたこととして)あって、あってと書いたけど見られていることを確かめたわけではなく(確かめるためには目を合わせる必要があるので)、ただ目の端でとらえた像からそのように判断しているだけなのだが、あ、見られているな、と思うとき、見られている自分の顔が意識されて〈見られている自分の顔を見ている〉みたいな状態になる。顔の表面にもう一枚顔をかぶっている感じ。それがへんな独特の感じだな、と気付いて、ここに書いておくことにした。

読書や目の細かい動きを伴ういろいろな作業のためにサングラスを買いに行ったけど、選択肢が多い×長く使うもの×単価が高いという要因からその場で決めて買うに至らず、もう少し掘り下げて考えてみることにした。とりあえず、光をカットすると文字から意味が読み取りやすくなるケースがあることは経験上確かなんだけど、それがどの波長帯をカットすればいいのかとか、メガネかけてると気持ち悪くなるのはなんで(軽減できないか)とか、専門家に聞いてみたいことがいくつかある。でも「サングラスをかけると文字が読みやすくなる」みたいなことを自分みたいな温度感で言ってる人他に見たことないんだよな。マイルドな感覚過敏なんだろうと思っているけど。