楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

『推し短歌入門』を読んだ

Twitterの140字制限から溢れた読書記録。

榊原紘『推し短歌入門』(左右社、2023年)を読んだ。

タイトルは「オタクのための短歌入門」とも言い換えられるだろう。わたしはオタクではなく、短歌に入門しようとする者でもないので、本書のメインターゲットではない(はず)。川柳を勉強する一環として(川柳の資料は少ないので)短歌にも手を伸ばすという仕方で本書にアクセスした。

短歌の技術面が項目立てて詳しく整理されていてうれしい。五七五七七のそれぞれの部分の呼び方とか「句切れ」みたいな基本用語はもちろん、一字空けには3つの用法がある、みたいなことまで事例を交えて解説されている(83ページ)。一方で、「そこまで決めるの?」と感じるところもあって、たとえば数字の表記について、アラビア数字は1桁なら全角、2桁なら半角で縦中横(82ページ)とかなり詳細な指定がされていたりする。全角半角はもはや文学というより組版や校正の領域に入り込んでいる気がするけど、これも短歌の世界では共通のルールなのだろうか。

この「細かさ」は本書が特にそうだという面もあるのかもしれないけど、こうした技術面が短歌の大事なところなのかもしれない、という気もした。網目の細かいルールの体系をつくってみんなでそれを守ることで一つの世界が維持されているというか。たとえば、103ページでは〈「君」「あなた」は主体にとって特別な存在である〉として読むのが「短歌の特殊ルール」だとされていて、驚きだったんだけど、これは相聞歌という歴史的経緯はあるにしても現状「そういうことになっている」としか言えない部分があるんじゃないかと思う。あるいは、40ページで、句ごとに一字空けや改行で区切ることについて「絶対にやめてください!!」と(ここだけ)強い言い方がされているのも印象的で、これも句跨りなどの技法が使えないというデメリットが説明されてはいるものの、それ以上に、それをされると「短歌」じゃなくなってしまうというか、この本で扱われている=現在行われている短歌のテクニカルな土台の整備がかなりの部分やり直しになってしまうという事情があるんじゃないかなと思った。技法が使えないからまずいという以上に、評価するときに「これは句跨りですね」みたいなアプローチがきかなくなるからレギュレーション違反にしているんじゃないかみたいな。

作者の思いを31音に乗せるためにあらゆる技術的手段を利用する、それが短歌だ、というのが本書の短歌観なのかなと思う。そう感じ取った。わたしは短詩に自分の思いを乗せたいと思わないし、詩が読み手に伝えるものを技術的手段でコントロールできるとも思っていなかった。それは川柳と短歌の違いなのかもしれない。なんだか短歌という建物に入らずにじろじろ偵察するようなことばかり書いてしまった気がするけど、その〈距離〉を明確に意識できただけでも自分にとっては非常に価値ある読書だった。