楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

『川柳EXPO 2024』感想まとめ

『川柳EXPO 2024』の収録作品についてTwitterに流した感想/鑑賞/読み/評 を、可読性・アクセス容易性のためにまとめます。

連載期間は6/12~6/28の17日間。取り上げた作家は68名中37名でした。当初は全員分にコメントすることを構想していたのですが、読み手としての資質の限界もあり、自分のアンテナに引っかかった作品に絞って取り上げることにしました。

今見直すと少し言葉足らずかなと感じる部分もありますが、加筆や削除等はしませんでした。やりだすとキリがないので……。一文が複数ツイートに分かれてしまったものを統合するなどの最低限の編集を施してあります。

以下、見出しは言及した作品を指します。

肩凝りはどうしてレモン色なのか/笹川諒

「〇〇はなぜ△△なのか」は新書のタイトルでよくあるイメージ。ここでは答えが用意されているというより、「どうして空は青いのか」みたいな素朴な疑問に近い響きに感じた。ものごとに驚きを表明するときの疑問文。
「レモン色」という言葉の選択が絶妙だと思った。鮮烈な色というより、白が混じった薄めの黄色に私には感じられた。「レモン味」だと刺激の印象が強いけど、「色」とするとやさしい手触りになる。
「肩凝り」と言うとひとは良いとか悪いとかすぐ考えがちだけど、この句ではその手をいったん止めて、肩凝りを「レモン色」が受け止めている。

きれいな目してるナマコがきてくれた/森砂季

「きてくれた」のニュアンス。句の発話主体は一人称複数(「我々」がナマコを迎え入れる)とも単数(「私」がナマコを一人で待っていた)ともとれる。いずれにしても歓迎の意が表明されているけど、そこに「きれいな目してる」と付け加えられるところに屈折がある。無条件の歓迎ではない。〈目がきれい〉は〈心がきれい〉を同時に意味することが多いから、たとえば企業の採用面接みたいにナマコの資質をシビアに見抜こうとしているのかもしれない。
でも、こう考えながら、いや、ナマコじゃん、と思う。しかもナマコには人間のような目はないから端的に嘘である(「ナマコの目」はリアルにはないから、わたしには少女漫画みたいなゴージャスな目がイメージされた)。そう気づくと、ナマコの心がきれいって何? と急に冷静になる。句全体が「きれいな目」という慣用表現への皮肉としても読めるかもしれない。

首にキスマーク海辺にデンマーク/中山奈々

デンマーク」と「海辺」は国と領土(の一部)をそれぞれ指すから、前者が後者を包含する関係になるはずだけど、ここでは関係が逆転している。「首にキスマーク」の助走に乗って、海辺に「デンマーク」がうっかり出現している。似た音を持つ単語を合わせていく方法はともすればダジャレのようになってしまう危険があるけど、ここでは無縁なもの同士を結びつけるためにリズムがしっかり機能していると思った。

ひらいたら財布のような戦国時代/郡司和斗

形式的な修飾関係を見ると「戦国時代」を「財布」に喩えている直喩のはずなんだけど、にもかかわらず目に浮かぶ景は「財布の中が戦国時代に繋がっていて、合戦が行われている」みたいなものが立ち上がる。文字通りの読解から身をかわす、不思議な面白さがある。
「ひらく」の文脈は、「戦国時代をひらく」か、テキストに明示されていない他の何かを「ひらく」になるはず。なんだけど、「ひらく」の意味を考え始めるとどうしても「財布」が滑り込んでくる。「財布」と「ひらく」の引き合う力のために、句全体がひとつの完結した世界をなしている。
この句を「財布をひらいたら戦国時代」に書き換えるとそれほど面白くないんだよね。不思議。「のような」はどんな仕事をしているのだろうか。

南雲ゆゆ「地域を見つけて賽を積む/振る/築く」(連作)

実験的な連作。句の向こうに「顔」がない、という印象を受けて、不気味だと感じた。同時に、自分自身が他人の川柳を読むときに同時に「顔」を見ているんだな、ということにも気付かされた。
575のリズムからの逸脱が多い点も特色かもしれない。ときおり普通の現代川柳(?)らしい句も挟まれるんたけど、そこでホッとすることもなく最後まで緊張を強いられる。

ストローは環状線を吸いあげる/甲斐

ゼリーみたいにちゅるっと吸い上げられそう。「環状線」の曲線を含んでいるという性質が、胴長の動物のようなしなやかさのイメージにつながっている。
言葉を使ったスケールの操作みたいなものに成功していて、小さなものと大きなものが対等に景の中に同居している。

かわいそうに轍、ハッピーバースデー/城崎ララ

万物への感情移入、慈しみ、のようなものを感じた。連作中には生物がほとんど出てこない(「松ぼっくり」と、抽象語だけど「花」ぐらい?)けど、同時に、感情の乗っている句が多いという感触もある。掲句の「轍」は生物/無生物の区別どころか、物体の痕跡、物体ですらないものなので、感情の差し向ける先はいっそう万物に及んでいることになる。
「かわいそうに」と「ハッピーバースデー」との取り合わせは意外だけど、あんがい同義かもしれないと思った。轍が「ある」ことそのものを気遣う言葉。

ガードレールなら君の中にも/おかもとかも

「才能なら誰にでもある」などと言うときの「なら」だと思う。とすると、この句の前段には「あーあ、お前にはガードレールがあって羨ましいよ」みたいな発話を想定したくなる。「違うよ、ガードレールなら君の中にもあるよ。まだ気付いていないだけだよ。」そういう会話が頭の中に広がる。内容が異常なのに形式上の条理は通っているのでおかしみが増す。
ガードレールという言葉は概念というよりも圧倒的に物質なので、やっぱり道路のはしっこに設置されているあれが体内にあるような景が展開されて、全体の読み味としては不気味さが残る。体の中にガードレールがあるみたいな異物感。

断頭台で城跡になる/みしまゆう

むかし処刑に使われた場所が今は城跡として観光スポット化している、かつてそこでギロチンにかけられた者も化石のように観光地の一部として埋め込まれている──みたいなシーケンスが浮かんだ。七七という短い形式に時間を圧縮している。
意味以前に、「断頭台」「城跡」の硬質なイメージ、そして「で」「になる」の最小の組み立てで固めた言葉の手触りがまず好ましいと思った。

ねむくなる前にひよこの場所を言う/松下誠

「ひよこの場所を言う」ことは「ねむくなる前」にすることに違いないという謎のしっくり感がある。「ひよこの場所」って何? 居どころ? ひよこの体の部位? とか、それを「言う」のはなんのため? とか、事後的にいろいろ問いは立てられるんだけど、景を見ようとする以前にわからされてしまう。言葉それ自体が圧倒的な説得力を持っている。

割られつつクス玉が切り通すシラ/佐藤移送

初読では素通りしたんだけど、「切り通すシラ」が変だなと。辞書では「しらを切る」でひとまとまりの慣用句だけど、それを分解して修飾語-名詞の形に組み立て直すことで、「シラ」というよく分からないものが前面に引っ張り出されている(しらを切るの「しら」って何?)。
「クス玉」(これも表記の妙で「クフ王」みたいだ)が動作主体になっているのも変だけど、文頭が「割られつつ」なのも日本語の文としては相当異様では。日本語が日本語でなくなるギリギリのラインを攻めている感じがする。

セブンティーンアイスの棒に選ばれる/谷じゃこ

共感。共感という言葉が浮かんだ。構図は、〈私〉がアイスの棒として選出される、という構図に受け取った。アイスならともかく「棒」としての生を享けるのは嬉しいことでもなんでもないというのが常識的な見方だけど、でもあのセブンティーンアイスの自販機の、カラフルで特別な感じが脳裏にフラッシュバックする。棒は棒で、アイスを支える土台部分と一体になっているところなんか、考えてみると愛おしいし……。棒に選ばれるのも全然悪くないなと不思議に思えてくる句。

動物系スープうっとりと無呼吸/ツマモヨコ

怖い句だと思う。「うっとりと」はポジティブな語彙ではあるけど、忘我の状態を指すから狂気だともいえる。また、「無呼吸」は体の異変を指している。不穏な表現が重なっている。
スープには死んだ動物(豚や鶏)の一部が溶け込んでいるけど、「無呼吸」と言うなら本来は呼吸しているということだから、そのスープの中の動物たちの呼吸(でも無呼吸だから息の根が止まっている)みたいなものを想像させられる。
「動物系」は「魚介系」と並ぶ、ラーメンのスープの分類に使われる語彙だと思うんだけど、そこの文脈を外して「動物」というところに体重をかけて意味を開いている感じ。その意味では偏りのある扱いだとも言えるけど、でも人間が動物を殺して食っているという事実はいつも人を揺さぶるものがあると思うし、そうした考えに「走りたくなる」リアリティは感じる。
表記について、「スープ」の直後に空白を入れると見た目はスマートになりそうだけど、でもこの句にとっては前半と後半が境目なく癒着しているこの仕立て方が合っているんだと思う。

舌打ちとタイムマシンの分岐点/小山あすか

ほんとうらしさ。舌打ちは「行為」であって「もの」ではないし、タイムマシンは「もの」だけど「まだ存在したことのないもの」。両者が交わる地点はないと思われるのに、この五七五のテキストはなぜか「ほんとうらしい」。
そもそもこの二者がもとは一つのもので、進化の系統樹みたいに分岐するという発想自体がナンセンスなはずなんだけど、そうやってナンセンスだと言っている自分のほうが実はおかしいのかもしれないと不安になってくるほどの、動かぬ「ほんとうらしさ」がある。

ゴルゴダの丘を移動する力こぶ/湊圭伍

景が面白い。「力こぶ」は人間の体の一部(川柳の題材になりやすい)ではあるけど、手足や顔のパーツなどと違い、単なる「かたち」という性格が強い気がする。
また、「登る」や「進む」などではなく「移動する」という抽象度の高い単語からは、ゲームのNPCのような無目的な運動をしているイメージが生じる。
ゴルゴダの丘」はむろんキリスト教の文脈があって、私は詳しくないけど、少なくとも〈力こぶの移動〉を配置する背景としては非常な場違い感が生じていると思う。
(ちなみに、明らかに違うんだけど、最初はWindows XPの壁紙のような抽象的な丘を思い描きました)

合鍵にしたいタレント第1位/兵頭全郎

「恋人にしたい芸能人ランキング」「上司にしたい俳優ランキング」みたいな雑誌の特集。けっこう昔からある印象だけど、調べたら今もあるらしい。
タレントという職業上の人格とはいえ、個々の人間をレゴブロックみたいに自由に差し替え可能なモノとして扱う発想がそこはかとなく失礼だなあと思う。人を駒みたいに手元で弄ぶような手つきは、そのまま誰かを「合鍵」扱いしていても別におかしくない気がする。
合鍵は作ったり破棄したりできて、ポケットに入れて無造作に持ち運べる。でもスペアだからいつも使うわけではない。「第1位」と持ち上げながら、そんな突き放しがある。

みずうみに落とすぎんいろのどぼとけ/小沢史

「ぎんいろのどぼとけ」の語感がすごくおかしかった。どこか愛称のようでもある。「落とす」より先は全部ひらがなで、この造語(ですよね?)にシームレスになだれ込むようなリズムになっているところもいい。
冷静に考えると体の一部を湖に落としているわけで、絶望的な状況なんだけど、「ぎんいろのどぼとけ」の正体不明さから、それほど深刻な感じは受けない。(あと、単語からの連想で、金の斧・銀の斧の寓話も思い出す)
……ここまで書いてからネット検索したら、喉仏には納骨の文脈があることを知る。それを踏まえて読み直すと味わいも変わってくる。

サンフランシスコが髪についている/雨月茄子春

「サンフランシスコ」が都市の名前だと知っていなければ、読んだときに何の違和感もなかったかもしれない。そう思わせる収まりの良さがある(特に縦書きで見たとき)。サ、ン、フ、ラ、シ、スの左下はらいの連発が「髪」との形状的な親和性を生み出しているのだろうか。
もう少し素直に、超ミニチュアの都市が髪に付着している、コラージュみたいな景を想像しても面白い。でもサンフランシスコだと分かったら手で払ってあげるのはためらうだろうなあ。

ササキリユウイチ「(無神経に)」(連作)

意味はとれない。「文脈読み」できそうな句もあるけど(「早計は~」「他のアナグラム~」など)、穴の形が違うパズルのピースを無理やりはめ込むようなやり方になってしまう気がする。
でも同時に、どの句もそれぞれに必然性のある組み立てになっている、と感じる。そしてそれは語彙同士の意味的な関連性によっているとか、構文の力とかというよりは、どこか日本語以外の場所から日本語にアクセスしているというか、パラレルワールドの日本語で書かれているみたいな印象を受ける。その(ありえたかもしれない)言語の話者なら日常会話で普通に発する文なんだろうなという気がする。

清貧の夜だシャンプーにゅうと出す/福士かれん

「清貧の夜」がどういうものかは明言されていないが、なんとなく音が静かな景だという気がする。その中で「にゅう」と出るシャンプーの存在感が際立っている。
「清貧の夜だ」は客観的描写というよりも「宣言」のようなものだと思う。私はこの状況を「清貧の夜」と捉える、という宣言。もし「だ」を抜いていたら、少しひとりよがりな感じが出ていたと思う。
連作中の他の句も、読んだ瞬間に伝わる何かがあるんだけどそれを日常の言葉で説明するのは難しい、論理的な説明が難しい事柄だから詩的な(日常語とは違う)言葉遣いになる、そういう性格の作品群だと思った。

たろりずむ「おだいじに」(連作)

20句全部がオールひらがな。もっとも、句単位で見ればこうした作りの川柳はときどきあるわけで、奇をてらったものとは受け取らなかった(もちろん連作としての作為はあるだろうけど)。
ではその効果は何かと考えたときに、この連作では「読むのがゆっくりになる」のが一つあるかなと思った。単語の区切りが自明ではなくなるので、注意深く確かめながら言葉を体に入れることになる。その結果として句の見え方が違ってくる。
連作中の一句、
 すりがらすごしにだれかとなかなおり
を、選評で小池正博さんがしていたのをまねして、標準的な表記に書き換えてみる。
 すりガラス越しに誰かと仲直り
面白さが半減した感じがする。でもそれは「表記の面白さ(奇妙さ)」だけかどうか。
一番違いを感じるのは「誰か」の部分だろうか。漢字交じりの表記だと不特定の誰か、誰を代入してもいい記号のように見えるけど、ひらがな表記で読むと、「だれか」は特定の人物を指していて、ただ「すりがらすごし」にしか会えない「だれか」だというニュアンスが際立つような気がする。説明しにくい、感覚的な話だけど。
ちなみに、「ひらがな句」を『はじめまして現代川柳』から探してみると、次のようなものが見つかる。全部ではないですがざっと並べてみると……

ははをちちからちちをははからすくえるか/佐藤みさ子
はらわたのどのあたりからくそとよぶか/渡辺隆夫
ひっぱればほどけるははとははのはは/なかはられいこ
わりばしをわるしゅんかんのけものたち/野沢省吾
すみっこでわたしはなにをされてるの/竹井紫乙
やせたかみさまがじてんしゃにのる/柳本々々

人参は乱切り年収もジルバ/宮井いずみ

「でたらめ」がここにはあると思う。宮井いずみさんの句は「文脈読み」的な読解を拒んでいる気がする。かわりに、無関係な言葉同士をぶつけた時の飛翔力がある。
掲句は、「人参は乱切り。年収も」……ときたら、続くのは「乱切り」か、それの類義語が来ることを予想するが、油断している読み手の顔面に「ジルバ」がぶつけられる。
意味的には暴れているけど、リズム的には(連作中の他の句もそうだけど)575をベースとしたしっかりした基礎工事があるように感じた。定型という乗り物、ということですかね。

肩甲骨のまうらにドライアイス/石川聡

外形的には「もの」が2つ提示されていて、それらの位置関係が示されている、という組み立てなんだけど、不思議と実景を想像しなかった。「まうら」が実はトリッキーだから(骨に表裏はあるのか?)という事情もありそうだけど、石川聡さんの句は、言葉の指しているモノ以上に言葉そのものの手触りが生きている気がする。ドライアイスのどちらかというと「ドライ」のほうだったり、肩甲骨はストレッチなどで日常なじみぶかい部位でもありつつ、どちらかというと字面のごつごつした感じが主張しているように見えたり。読んでいて心地よさがあります。

傘を全ての比喩から守る/白水ま衣

「傘」は「核の傘」みたいに何かの比喩として使われがちで、傘とは隠喩そのものであると思えてくるほどだ。掲句はその見方を解除して、傘を傘として見てあげようよと言っているものとして読んだ。しかし、「守る」という言葉を使ったとたん、それは「傘の傘」を作るということですか? とふたたび隠喩的思考が忍び込んでくる。こうした無限後退の連鎖を食い止めるには、〈私〉という生身の存在が身を挺して立ちはだかるしかないのかもしれない。(ちょっと深読みしすぎかも?)

祭りには柔らかいもの持っていく/小原由佳

二物衝撃みたいなことを考えるとき、名詞と名詞とか、名詞と動詞みたいなことをまず考えるけれども、「二物」の一方に〈柔らかいものを持っていく〉というひとかたまりを召喚したのが出色だと思った。
そもそも〈柔らかいものを持っていく〉のが適切な場面ってあるんだろうか。「明日の面接には何か柔らかいものを持ってきてください」「明日の授業では柔らかいものが要るから、家から持ってきてね」──「柔らかいもの」は、そもそも持参するのに適していない気がする。「柔らかいもの」を使う祭りは、はじめから失敗を約束されているとさえ思えてくる。でも、掲句からはこれから祭りに向かう高揚感が確かに漂ってくるし、だから〈柔らかいものの持参〉に対する揺るがない確信も感じられて、とてもおかしい。
私はこの文章中で「柔らかいもの」と何回言ったんだろう。とにかくこのフレーズに頭を支配される句。

砕け散るサラダあとさき考えて/太代祐一

常識から外れた組み合わせ方に見えても、一つの言葉に合う言葉を(時には遠くからでも)きちんと見つけて来てあげる仕事の丁寧さが太代祐一さんの川柳にはあると思う。
掲句も、サラダ-砕け散る-あとさき考えて の脈絡は不明ながら、言葉に無理をさせている感じは不思議としない。言葉がちゃんと息をしているというか。
「砕け散る」からは、彫刻のような硬質なサラダを思い描いた。そして外力によるというよりは自分の意思で「砕け散る」ように感じられる。「あとさき考えて」は第三者が文句を言っているようにもとれるし、サラダが主語になって撞着語法的に「あとさき考えて砕け散る」なのかもしれない。
各部分に色々な解釈を与えることができるけど、一度にすべての面を見ることはできない、多面体のような句。

下野みかも「再生」(連作)

前半10句と後半10句で手触りが異なる。他の人の連作でもこれは感じていて、ある程度までは内容ではなくページ区切りの影響な気はするんですが、でも10+10=20という割り方をした人はけっこういたのではないかという気がした。
川柳EXPOの感想を書くとき、それぞれの句を口頭で一度読み上げるようにしてるんだけど、前半10句は自分の声で読むとしっくりこない感じがあった。それが「私性」のありかなんじゃないかみたいなことを思う。簡単に他人に渡せない言葉。
でも前半と後半でどういう違いがあるのかと考え出すと悩ましい。前半はモノローグ的なんだけど後半はより川柳っぽい文体になっているように見える。文体の問題なのだろうか。というか「川柳っぽい文体」って何……?

カシオトーンで発火しようよ/太田水

言葉の化学反応。「発火」と合わせたときに「カシオトーン」があの電子楽器の姿を忘れて、そうでない何物かに化ける感じがする。化けるというか最初からそうであったような気がしてくる。存在しない同音異義語、みたいな。
火が出てくるけど「しようよ」も何か危険なことをしようとしている感じはない。ニューロンの発火みたいなものもちょっと思い浮かべる。
七七句の醍醐味はこういうところ(言葉同士をぶつけたときの意味の化けかた)にある気がします。

今日もまた葉っぱ時間でいいですか/郷田みや

学校を休みがちな子供、みたいなものをなんとなく思い浮かべる。人間社会を流れる「時間」は多数派にとって快適な生活リズムをもとに設計されていて、すべての人の体に合うわけではない。「ふつう」の時間についていくだけで精一杯の人もいるだろう。「葉っぱ時間」は人間の設計したものとは違う、もう一つの時間として感じられる。「今日もまた」という前置きが「葉っぱ時間」の心地よさを裏書きしている。
別の世界に通じる窓口が一枚の「葉っぱ」に託されている。

個別化を避けて通ると嬉しいよ/大江信

すごく気になる句でした。抽象度の高い「個別化」という語を頭に置いていて、その中身(何の個別化? それとも個別化一般?)が最後まで判然としない。
この句には動作(避けて通る)や感情(嬉しい)は出てくるけど「もの」が出てこないので、景を描く手がかりが弱くてなんというか重心のない図形みたいな遊離感がある。「避ける」ではなく「避けて通る」としているのも、その道はどこに通じているのか気になる。「嬉しいよ」と呼びかけているけど、嬉しさは主観的度合いが高いので「〇〇すると楽しいよ」ほどには歯切れ良く聞こえない感じがする。
……などなど、考え始めるとたくさんの疑問が立ち上がってくる。そしてここまで検討した上で掲句を見直しても、最初に見たときの違和感のようなものが1ミリも動いていないのがまた不思議。

無法地帯の渦巻をこねつづけ/成瀬悠

「ここは無法地帯だ」という言い方があるように、誰かがそう宣言することである一帯が「無法地帯」として現れる。この言葉はそういう基本性格を持っていると思う。だけどこの「無法地帯」は、〈ここからここまでが無法地帯だ〉と言えてしまうような、客観的な境界をもつもののように感じられる。「の」という助詞のせいかもしれない。「の」はその前に来る語句をひとまとまりのものとして一度まとめあげるはたらきがある気がする。
「渦巻」は紙に書いたぐるぐる模様かもしれないし、小さな竜巻のようなものかもしれないし、ロールケーキかもしれない(「こねつづけ」との関係はこれが一番近い)。でも「無法地帯の」に続いていることを意識すると、そのどれでもない気がしてくる。
句が目に映ったときに読み手の意識に飛び込んでくる「何か」が、分解するほどによくわからなくなっていく。ギリギリのバランスで立っているような感じがして面白いです。

禅譲されたひっそり帝国/リチャード・テイラー

「名が体を表す」ことはありふれた現象だけど、帝国の名前にしては権威がなさすぎる。昨日できた帝国みたいな響きがある(昨日できた帝国とは?)。でも、身も蓋もない命名だからこそ、その帝国が「ひっそり」しているだろうことは疑いようもなく、だからその帝国の存在も、そこで禅譲が起こったことも誰一人知らないのかもしれない。
過去に存在した帝国、たとえばローマ帝国とかモンゴル帝国などを思い出すと、「帝国」と言うからにはかなり広大な版図をもっているはずで、それが「ひっそり」存在していると考えるとかなり不気味だ。
補足。作者によるコメントが先に公開されているのでリンクしておきます(「9句目」の部分)。自分の感想を書いてから読みに行ったのですが、全然雰囲気違いますね……。ちなみに私は「ひっそり帝国」からは即座に「ゆらゆら帝国」を想起しました。

「貼る毛利氏」自句独語 03|リチャード・テイラー

寝坊!ラジオ体操の人たちを止めたい/石川はぴぴ

句意は明白だと思う。寝坊したことに気づいてからとれるアクションは色々ありそうだけど、まっさきに「止めたい」という身も蓋もない選択肢が来るのはリアルだし、「ラジオ体操の人たち」というやや荒削りな把握も、起き抜けで頭が十分回転していない感じがにじんでいて面白い。
5-7-5のどれも順守していない豪快な破調だけど、違和感なく読めた。

プードルを装備したまま寝てしまう/小夏すず子

別にプードルを武器や防具として用いるわけではなく、肌身離さず近くに居させておくのを「装備」と表現しているのだろう。こういう比喩はふつうはしないけど、自分の体の一部みたいなぴったり感が「装備」に表現されていて説得力がある。
装備できるということは装備解除もできるはずで、そうした一体になりきらない親密さみたいなものも表現されている。

小便器中央を狙う破壊竜/あめのちあさひ

男性用小便器には「ここに当ててください」と言わんばかりの標的のシールが貼られていることがあり、それを思い出す。「破壊竜」といういかにもめちゃくちゃやりそうなイメージなのに、律儀に「中央を狙う」のがユーモア。小学生が好みそうな単語選びなのもおかしみを加速させている。
小便器で用を足すときにだけ、しかもイメージの中でだけ内なる破壊衝動が解放される、人間が社会の中で飼い慣らされている様子の風刺とも読める。

「数字の上では、おれのざらめ。」/西脇祥貴

連作タイトルから、また連作中に散りばめられたキーワードから、聖書を何らかの形で下敷きにしているはずで、本当はそれに沿った読みをすべきだと思うけれど、今回は一句だけ抜き出して考えてみる。
とはいえ、周辺の句を手がかりに読まざるを得なくて、わたしは連作中に「怖い」句が多いなという印象を受けている。それは「よく考えてみると怖い」というよりは、一般的に怖いとされる場面が全体的または部分的に描かれている、ような気がする。宗教モチーフを意識するからかもしれない。
その感触が影を落とす形で、「ざらめ」からは何か不吉な印象を受ける。音の面では「ざら」という擬態語的な不快感もあるし、「め」には「奴」という字を当ててみたくなる。また、粗目糖の見た目はさらさらの上白糖とは違い、ひとつぶごとの欠片の姿をみとめることができて、もともと具体的な形のあったものが粉々にされた後にも見える。
何か別のものの代理として「ざらめ」という語が配置されているんだろうという予感がありつつ、でも単純にAをBに置き換えているのではなく、他に言い換えられないものを「ざらめ」という3音に託しているような感触がある。
「おれのざらめ」は何かに対する所有を宣言しているけれど、「数字の上では」という限定がついている。しかも、「数字の上では」は「名目上」に近い意味で、実と虚で言えば虚のほうに属するから、要するに「(本当は)おれのざらめ(ではない)」と言っているように見える。
……というふうに句の外形から考えてみたけど、西脇祥貴さんの連作は全体の把握が先に来て、それにしたがって部分の意味が了解されてくるようなつくりをしている気がしてきました。今回はここまでにします。(中途半端でごめんなさい)

通販でミテミヌフリを買う大人。/まつりぺきん

末尾の「。」で糸井重里によるキャッチコピーを想起した。
「ポチる」という言葉が象徴しているように、現代において通販はますます気軽なものになっている。「ミテミヌフリ」のカタカナ表記は、「見て見ぬふり」という態度を一つの商品としてパッケージングしたもの、という意味あいにとった。直視すべきことから目を逸らして快適に暮らしている私たち、という皮肉に読めるが、それが「~大人。」という糸井フレームで包まれることにより、後ろめたいことがあたかも粋であるかのように再ディスプレイされていて、二重にねじれている。
(ここまで書いてから、「。」で終わる句は脚本のト書きのようなニュアンスでとったほうが適切な気がしてきましたが、句単体で取り出したときには可能な読みということでこのまま残しておきます)