楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』を読んだ感想

長くなったのでブログに載せる感想。

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川合大祐『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』(書肆侃侃房、2025)年を読んだ。休み休み一ヶ月半ぐらいかけて読み切った。この数字は私的な記録の意味だけであって、早い人はもっと早いし、遅い人はもっと遅いだろう。

固有名詞を含む句が多い。読んでいると全体の半数ぐらいは固有名詞を含んでいるような気がしてくる。実際に数えるともっと少ないはずだけど。

前作『リバー・ワールド』をぱらぱらめくると、固有名詞は本作より少ないか、使われていてもポピュラリティの高いもの(「サマセット・モーム」p.118 、「吉永小百合」p.225 など)が選ばれているように見える。その点、本作は先鋭化しているというか、作者のパーソナルな面(世代とか、読書遍歴とか)が押し出されていると思う。私も知らない単語がたくさんあったし、全部調べながら読んだわけではないので、本当にそうなのかはわからず単に印象の話だ。

先鋭化ということを言ったけど、句のおもしろさの質も、よりわかりにくい方向というか、説明するのが難しい方向に進んでいる。

前作を見返していて、今作とで「森進一」句のペアが作れるなーということを発見したんだけど、偶然、いい対比になっているかもしれない。

革命後森進一がふざけすぎ

 (『リバー・ワールド』p.248)

森進一が精米所から出てきた

 (『ザ・ブック・オブ・ザ・リバー』p.85)

前者の句は、「革命後」という5音での(インスタントな)大風呂敷の広げ方のおもしろさや、「ふざけすぎ」という述語を当てることで「森進一」像に軽いゆさぶりをかけるという仕組みがあって、そうしたパーツのコンストラクションによって句が成っている。一方、後者の句はもう「森進一」だから面白いという境地に達していて、もちろんその後の述部が適切だからこそ一句として成り立つんだけど、あくまで「森進一」そのものの面白さ(失礼だな〜)を支えるため・浮き立たせるために選ばれた措辞だといえる。これは一歩間違えれば「森進一という名前を出してるから面白いだけでしょ」という話を招きかねないやり方で、そういう意味で安全装置外してるなーという感想をもった。

そのほか、「六月が終わるスタミナ美術館」(p.163) 、「古舘が逆スポイトにたどりつく」 (p.226) なんかが私は好きで、全然意味わからないし、この句を面白いと思う必要性もない(変な話だが)と思うんだけど、私には無性に面白い。

固有名詞が多い点を冒頭で言ったけど、実はそのせいもあって、固有名詞が固有名詞然としていないのもこの句集の特質かもしれない。というか、すべての言葉が等価に見える。これは2025句というボリュームの影響でもあるだろう。また、それに伴う紙面のレイアウト、行間狭めで一見意味のとれないテキストがずらずらと続いていく感じがお経のようでもある。

本書の川柳と言葉との関係について、〈借り物〉という点からもう少し考えてみたい。

あたおかの棋士の群像仮面劇 (p.52)

数字上爆発物がキモいへや (p.166)

「あたおか」「キモい」は作者の「世代」の言葉ではないと思う。実際、これらの言葉は、その響きやニュアンスを消された状態で句に収まっている。つまり、ネイティブの使うそれではない。それどころか、「あたおかの」などはむしろ枕詞の響きをまとってさえ感じられるし、「キモい」は直後の「へや」とぷよぷよのように一体化しかけている。句の中で新たな居場所を見つけつつすらあるようだ。

スラングや流行り言葉の響きを(正負の方向を問わず)活かす川柳もあるが、これらの句はその逆を行っている。その言葉の当事者でない立場から、その言葉を参照している。(そして、蛇足だが、言葉である以上それはいつでも可能だし、可能であるべきだ)

言葉が借り物であるという点について、郡司和斗さんの川柳に近いことを感じたことがあった。

合同ネプリで見たときは言葉の世界に関心がある人のように見えたけど、この紙は言葉の世界と「景」の世界のあいだ、みたいな感触。 あと、出てくる名詞が、現実世界に生きている事物というよりは、図鑑からそのまま取り出してきた模型のような感じを受けた。 ラーメンのすっきりとした青春期/郡司和斗 この句は、「ラーメン」「すっきり」「青春期」は語彙範疇としてお互い重なり合わないんだけど、なんとなく通ずるところもあり、方向転換しながら折れ線グラフみたいに一本の線を描いていると思った。

楡 (@elmman.net) 2025-01-09T05:31:56.031Z

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郡司さんの川柳における名詞は「図鑑からそのまま取り出してきた模型」のように清潔で、公共物を参照している感じ。他方で、川合さんの上掲句における手つきは、誰かが使っている言葉をその人から借りている、という感じがする。手垢がついているし、それを特段洗い流しているわけでもない。でも使い手が変わると言葉の響きも変わる。

造語や言葉遊びについてはどうだろうか。

鳥瞰に旧たまねぎが割れている (p.55)

浪曲のうる星やつに霜柱 (p.67)

ゆうぐれに機械くれゆく野比カフカ (p.70)

このように言語に自らの手を入れるような処置をするときって、作者にそのつもりがなくても「どうだ!」みたいな感じを読者は受けてしまうものだけど、本書の句に関してはそれがない。むしろどうでもいいことだと思っていそうに見える。生身の作者本人がどう考えているかではなく、句集の読み味の話として。ここにあるのは「旧たまねぎ」と「新たまねぎ」に優劣がない世界、「野比のび太」と「フランツ・カフカ」と「野比カフカ」が等価な世界だ。

書き出したら長くなってしまった。ほかに、句集冒頭の「フーダニットの針が挿さってゆく水風船」の鑑賞とか、自由律の句がたくさん入っていることとか、触れたいこともあるんだけどこれはまた機会があれば書きたい。