楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

秘伝ごっこ

一日の終わりに、その日あったことや達成したこと・体調のことなどをiPhoneのボイスログに吹き込むことを最近のルーチンにしている。理由は──習慣としてなじんでくると、それを始めた理由はやがて忘れてしまう──、しゃべる練習をしたいということだった気がする。このあたりは自分の中でもあいまいである。理由が確固としてあるのではなく、「何か面白そう」が先にあり、理由はそれを後押しする。

しゃべる文体を身に付けたい。文体というのは書き言葉に対して言う言葉だから「しゃべる文体」は未熟な表現だろうが、今はこれがしっくりくる表現なのでこのままいく。ボイスログに吹き込む日々の中で、自分がそこで話しているというよりはこの日記に書くような文章を口から出力しようとしていることに気付いた。話しながら、あれも言わなきゃこれも言わなきゃと不定形の〈内容〉が湧き出てくる。それらに形を与えながら適切な順序に整え、しかもリアルタイムにそれを口から出しながらするのは至難の業だ。私の頭脳はその課題についていけない。そもそもしゃべるってそういうことじゃない気がする。

そういうことじゃない気がする。しかし、しゃべることがどういうものであるか、積極的な言葉で言うことができない。私はしゃべるということを知らないのか? 知らなかったのか? 今まで。確かに、会話らしきものに私が参加していると言える今までの場面を振り返ってみると、私がしていたのは他の出来事に対するリアクションか、「説明」のようなものであったかもしれない。外国語学習で言うと、リーディングはできるがリスニングはできない、みたいな状態だ。私は口頭でのコミュニケーションの一部しか習得していなかったらしい。

コンソメサイドバー

そういえば最近は「死にたい」と思う頻度がぐっと減ったなあと気付いた。私にとっての「死にたい」は、「これから起こる問題に自分は対処することができない」という無力感を伴っているとも気付いた。つまり端的な逃避の意味でその言葉を思っている。

何かが起こっても自分はそれに対処することができる、という意識が私はベースラインとして希薄である。「まあなんとかなるでしょ」という無鉄砲さをカンフル剤的に使用することはあるけれど、それは自信に基づくものではない。その代わりに、ひとたび何かが起これば自分はそれに巻き込まれ翻弄されるだけなのだ、という他力本願が自分の中にはびこっている。有意義な考え方には見えないが、簡単に取り去れるものではなく、一つずつほぐしていく必要があるだろう。

いつもの訓読み

一日中寝てたいような空模様だ、1月ってこんな感じだっけ?」とTwitterに書いた。空が白くて薄暗い。こういう日に朝ふとんから出ずにまどろんでいるのは気持ちがいい。1月がいつもこんな感じなのかは知らない。思い出せない。わたしはこれでも天気のことを少しは気にするようになった。以前は、暑けりゃ脱ぐ、寒けりゃ着る、雨が降れば傘をさす、天候について気にすべきことはその程度だと思っていた。今は、日の最低気温と最高気温を把握して、このくらいの温度帯なら薄手のコートでもいいだろう、とか、そのくらいのことを考えることはしている。でも「そのくらい」ではある。こないだある人と話していて、天候に関する解像度(あまり好きではない言葉です)が違っていたので驚いた。解像度が違うと互いに話が通じ合わないのだ。関心の深さといってもいい。別に相手は気象予報士などではないのだから、相手の関心が深すぎるのではなく私の関心のほうが浅いということだろう。べつに天気を気にする気にしないで人間の値打ちが決まるものでもないだろうが、しかしなんにせよ、細かく見て、理解して、おぼえていることの価値。そこには付け焼き刃では太刀打ちできないものがある。

干し肉レーダー

風呂のお湯入れてる間に何か書くか。去年からかかずらっていたストレスのかかる仕事、その最後っ屁みたいなのが出てきてうんざりしながら残業してた。この会社やめるのは既定路線ではあるけど、改めて、早く辞めたい。この言葉はなんだか自分で言ってて物欲しそうな感じが出ているような気がするので言わない方がいい気がしていたが、その場での本心であったことには間違いない。この会社やめたい理由はこの1~2年間ぐらい時期によって考えたり考えなかったりだったけど、自分の中で一番しっくりくる理由は〈自分の仕事に誇りを持てない〉だった。何を立派なことを、この資本主義社会の中でそもそも生きていくには労働に従事するのがいちばん有力な選択肢なのだから、仕事で充実感を得ていなくても胸を張って「生きるために働いてます」と言えばいいのだが、いや、別に、仕事が嫌になったら辞めたらいいじゃん、状況が許せば、という常識的な判断を体現しようとしているだけなのだが。

月初にあった印象的な出来事の印象が薄れ始めたのを感じた。せっかく正気に戻ったのに。自分や自分にまつわるさまざまなことに向き合わなきゃと本を買い込んできても、前からやってくるイベントに気を取られている。重要度は劣るが緊急度が高いというアイツだ。人生とはそんなこと──重要なこととの出会いと、目の前のことに気を取られること──の繰り返しだという気もする。だから継続性、考えてきたことを考え継ぐこと、考え続けること、そのために工夫すべきなんだと思う。今年は紙の手帳を使ってみる。繰り返し立ち戻る拠点をつくりたい。

バリカタ讃歌

年始にあった出来事の残響がまだ続いていて、ことあるごとの内省の産物としてあまり直視したくなかった自分のことが定期的に掘り出されている。掘り出し物だ。

相変わらず、なんの面白みもないことを書くけれど(と、この話題では謙遜から始めたくなる)。私は他人といるのが苦手で、誰かといるときはもれなく緊張している。ガチガチではないけど常に一定量のバリアを張っているような(ATフィールドってやつね……)、常にやんわり防御体制をとっている。近しい関係になってもそうで、これまでに交際かそれに近い関係になった人にはほとんどもれなく〈楡といても楽しくない/楡は自分といても楽しそうに見えない〉という意味のことを告げられている。

ある程度の年齢を過ぎた頃からは家族に対してもよそよそしい感じになってしまった。というか、遠慮はずっとしていた。

年に何度か酒を飲みに行く大学時代の仲間は、数少ない気安い関係だといえて、彼らといるときはほとんど緊張していない。自分の深い部分を開くことはないが、まあそれは別に他の誰に対しても同じことだ。

その人の前でリラックスできるか、無防備でいられるかというのが、その人との関係性を測る一つのメルクマールになっているんだなあと思う。

ここまで挙げてきた事例を振り返ると、防御的と言いつつ、自分のことを批判してくるから心を開かないとかというのとも違うんだよな。先に触れた大学時代の仲間は自分のことを批判してくることもある。なんだろう。私という人間がどうあってほしいかという期待が特になさそうなところが気楽なのかな。ただ関係しているということによって成り立っている関係。

むかごに化かされて

自分のダークサイドを掘り起こしていきたい。このダークサイドとは「暗部」の意、文字通り隠れている部分の意味で言っていて、特に反道徳的だとか過激だとかいう部分のことでなくてもよく、いろいろの事情で直視せずに済ませてきた部分のことを言う。要するに、自分が自分自身のことを大して理解していないとわかったということだ。

見ずに済ませてきたのは、その内容が社会的規範に照らしてイケナイことだからとは限らず、単に「面倒臭いから」ないことにしてきた側面というのも多分にあるんじゃないかと思う。いちいち立ち止まって直視するのがリスクだという判断をしてきた。動かしていた手を一旦休めることや、立ち止まった結果として軌道修正を迫られることが「リスク」だと感じられる程度には、私から見て世界の回るスピードは目まぐるしかったんだと思う。だからこの戦略は、世界から振り落とされないためにやむを得ず編み出した戦略でもあった。得たものより失ったものの方が大きい気がしているが、でも自分自身くらいはその意義を認めてあげなきゃいけないなと思う。