楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

もち米興業

春分の日。某所に遊びに行って、そのあと手帳を買いに行って、手帳を買わずにクリップボードを買って、トルコ料理屋でケバブを食べて帰ってきた。クリップボードは手帳の代わりに自分に合ったスケジュール管理アイテムを自作するための材料です。

自分は普段元気がなさすぎるなあと思う。きのう思い立って、気分記録表的なものをつけることにした。1時間刻みで、そのときの気分を-5~+5ぐらいで評価して記入する。自分が何に対してどのように(ポジティブに/ネガティブに)感じているのかを外部化して眺めてみようという、認知行動療法の何かの本で見た活動である。記入してみたら──仕事が忙しくなって夕方ぐらいに早速挫折したのだが──、その日は気分が -3 から 0 の間で推移していた。朝起きたときは 0 なのだが時間が進んでいくとマイナスになって、その後低調が続くという流れだった。そうか、わたしは普通に暮らしていて気分がポジティブになることがないんだな、という発見があった。

とはいえ、必ずしも「直さなきゃ」と思うわけではなく、基本低調であっても幸せな生というものはありうると思うが、それはそれとして自分は色々我慢して生きているなという気づきも──これも繰り返し気付き直していることであるが──あった。そして「色々」とは主に、「言うこと」だ。言おうとして飲み込んだ言葉が私の生涯には何万とある。そんな言い方をすれば、そりゃ誰にでもあるよと言われるかもしれないし、誰にでもあることと私も思うが、それにしても何かを口に出そうとするのを阻止する〈内なる校正者〉〈内なる監督〉みたいな存在が私の場合は厳しすぎると思う。そしてその現象を掘り下げたとき行き当たるのは「本当の自分を出して嫌われたら耐えられない」といったありがちな信念だったりする。

いまは認知行動療法をやる時間ではないから長々とは書かないが、この信念はいくつかツッコミの余地がある。まず「本当の自分」とは何かということで、そこで表出されんとしている情報なり人物像なりが「本当の」という言葉に値するとどうして当人が決められるのかという質問が可能である。自分の頭の中にあってまだお蔵出しされていない情報を特権視する理由がどこにあるかという話。私が言葉を発するか発さないかにかかわらず、すでに「私」は何らかの形で表出している。制御しようもなく。そして「耐えられない」というのも根拠がなくて、嫌われたら嫌われたでスッキリするかもしれないし、そうではないかもしれない。少なくとも自分の記憶を辿るに、誰かに嫌われたことをはっきり認識して、それが原因で体調を崩したとか精神的な健康を悪化させたといった経験はない。

などなど。なんだか書いていることが大学生ぐらいの頃と変わり映えしないなぁと思うけれど、自己理解の努力はいままでサボってきたことなので今更と思わず続けたい。こういうことも仕事の負担がたまさか減った状態でしかできないんだよなぁ。やはり環境を変えるべきだと思う。