「大学に行ってよかったですか?」みたいな色々な答えかたができる問いについて、例えば「今もときどき会う友達ができたのでよかったですね」「図書館で専門書が読み放題だったのでよかったですね」などなどの仕方で一面を切り出して「よかった」「よくなかった」と答えるのは、きわめてありふれた無難な応じ方でありつつ、ある意味で不誠実であるとも思う。だってそれは大学に行くことの一面でしかないから。よかったこともあったし、よくなかったこともあったし、それらをひっくるめてどうなのかを元の疑問文は問うているのだから、途中式みたいなのだけ出して満足するのではなく「いやぁそれは難しいですね」と応じる方がまだしも誠実ではあると思う。
このことに別の見方があるのは知っている。でももうちょっとこのスタンスで話を続ける。
『発達障害当事者研究』を読んで獲得した言い方だけど、定型発達者は置かれている状況を意味として〈まとめあげる〉のが高速である、と思っている。そういう仮説でいまはものごとを見ている。暑いときに暑いと言える、喜ぶべきときにうれしいと言える。それはリアルタイムな状況把握のたまものだ。
この話には、昼にこういうことを考えていたという脈絡がある。
歩いてきた。暑いとは感じなかったけど汗をかく。そして帰ってきたあとのほうが汗の処理やら体をクールダウンする必要やらで「暑い!」という言葉が出てきた。暑さは感覚ではなく状況認知を表現する語彙だ。
わたしは自分が感じていることを自覚するのが苦手で、それこそ「暑い?」と聞かれたときに考え込んじゃうことがしばしばあるんだけど、これは自分の内なるものにアクセスするのに障害があるとかというよりは、外界を含む状況認知が貧しいということなんだと思う。
最初の話に戻って、〈ふつうのひと〉は、「大学に行ってよかったですか?」という問いに「誠実な」答え方をしない。そこはまとまりあがらない。大学にまつわるよかったことやわるかったことを断片的に言うのだ。そして、それはぽつりぽつりとした発話であるよりは、発言者の「今」につながるストーリーとして流暢に語られる。端的な把握の代わりにストーリーが流通する。これはなんだろうか。そして、自動的にまとまりあがる把握とそうでない把握のちがいはなんなのか。