楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

じょうろは丈夫

人の気持ちが分からないと言っている人を見て、わたしも人の気持ちが分からない、と思ったが、より正確に言うと「人の気持ちとは何かが分からない」「人の気持ちがわかるとはどういうことかがわからない」だと思った。『自閉症スペクトラムの精神病理』の前半で語られている内容と符合する。その本に即してさらに言い直せば、〈他者にこころがある〉という構えをはじめからもっていないということ。他者のこころを感じ取るモジュールがない。

他人が困っているとき、その人が困っていることはわかるが、それは「問題を解決しなきゃ」みたいな仕方で立ち上がる。他人がわらうとき、それは「楽しい」なにごとかがあるからわらうんだろうなとわかるし、その「楽しい」やつがどれだったかも特定できるが、それはあくまで他人がわらっているという事態に付属するラベルのようなものだったりする。他人が怒っていることも、声の調子などからわかるが、それもあくまで「その人が私に危害を加えてくるかもしれない」という兆候として見えているだけだ。

いわゆる定型者にとって世界がどう見えているのか私にはわからない。だから、「〇〇ではなく」という対比の言い方ができないが、ただこうしたありかたが「ふつう」とは違うらしいという実感は日々亢進している。

近いような遠いような話。感情疎遠人間をこのように自認しているけれど、わたしは「人と人とが仲良くしている」コンテンツをかなり好んでいることが知られている(私に)。ここで〈仲良くする〉というのは馴れ合いの意味ではなく、「この人たち本当に仲がいいんだろうな」と思わずにはいられない間柄の人たちが、その仲の良さを自然に表出しているようなことを指している。具体的には、ラジオの「ハライチのターン!」、「爆笑問題カーボーイ」、YouTubeチャンネルの「カミナリの記録映像」、「MELOGAPPA」などが思い浮かぶ。(カミナリのチャンネルは最近見なくなっちゃったけど)

なんか、ないものねだりというか、自分の人生の中でそういうものが決定的に欠けていたからとりわけ輝くんだろうなとは思う。欠けている、と言えば、求めないのか?という声が聞こえてくる。そこで私は口ごもる。あきらめてはいないけど、私にとっては(どんな他人であっても、他人との仲の良さみたいなものは)手を伸ばせば届くというようなものではないから。