楡男

一億人の腹痛と辞書と毛虫とオレンジと

しょっぴいてサーファー

息抜きに『星のカービィ2』をやってるんだけどラスボスだけが異様に強くて、それまで溜め込んでた残機を全部そこにつぎ込むような形になっている。これの前にやってた『マリオランド2』も最終ステージだけ急激に難易度が上がって面食らった。

それだけ。

冷凍庫を覗いたらスイートバジルが余っていて(ハーブ類は冷凍すると色落ちするけど保存は利く由)、じゃあガパオライスでも作るかと鶏ひき肉を買ってきて調理したんだけど、出来上がってから肝心のバジルが冷凍庫に放置されていることに気付き、バジルだけフライパンで加熱して鶏肉炒めの上に乗せるということをした。

とか。

こちらの質問に答えない人っているけど、〈問われたことに答える能力〉って考えてみると人間に生まれつき備わったものではないのかもしれない。それは教育の所産で、より具体的には英文法の学習を通じて〈質問に答える〉という所作を身につけたものかもしれない。You may have ... ⇔ May I have ... みたいな対応とか、 Whereが入っている疑問文には「場所」を答えるとか、そういう問答の形式を身につける機会が、学校教育だと英文法が一番大きいのではないかなとか思った。問答の形稽古みたいな。そうだとすると、問いと答えという所作そのものが、他人からいくぶん教条主義的に教わらないと身につかない、規約的な性格をもったものにも見えてくる。問いと答えのやりとりを「論理的」なるものの一部分として数えるとすると、自然言語における論理的な部分──「型」のある部分は、人間に自然に具わっているものというより、バーバルコミュニケーションを円滑に行うために発達したデバイスだという見方をしてもそれほどおかしくないかもしれない。

とかね。